日本刀を打つ刀鍛冶の世界では、今も儀式のように仕事が始まることがあるそうです。
神主のような装束をまとい、火を前にして深く頭を垂れる。
そして、熱した鉄を何度も叩き、不要なものを除きながら、一本の刀を鍛えていく。
そこには、まるで“神聖な何か”に触れているような静けさと緊張感があります。
彼らが仕事に向かうときに抱いていた感情――それが「畏怖(いふ)」です。
ただ怖がるのではなく、目の前の力や存在に敬意を持ち、自分の傲りを鎮め、慎重に臨む。
その姿勢は、現代を生きる私たちの仕事にも通じるものがあります。
いまの職場には、AIもセンサーもあります。
異常があれば警告を出してくれるし、事故を防ぐ安全装置も整っています。
それでも「完全に安心」と言い切れるでしょうか。
私たちの周囲には、想像以上のエネルギーやリスクが潜んでいます。
高温、高電圧、高所、回転体、化学反応――
それらは一見コントロールされているようでいて、
わずかな判断ミスや確認不足が、大きな事故に直結することがあります。
よくあるのは、「前も大丈夫だったから、今回も大丈夫だと思った」
「ルールにはあるけれど、面倒だからつい確認を飛ばした」――そんな油断や慣れ。
そういうときこそ、「畏れる心」が私たちを守ります。
それは、“おびえて動けなくなる心”ではありません。
“見えないものにこそ敬意を払い、慎重さを失わない心”です。
数年前、私たちは“見えないリスク”と向き合いました。
新型コロナウイルスという未知の存在を前に、手洗い、距離、マスク――
その一つひとつの行動に、見えないものへの敬意が込められていたように思います。
技術が進んでも、危険をすべて“機械まかせ”にはできません。
だからこそ私たちは、「目には見えないものを感じ取る力」を磨いていく必要があります。
現場の“なんとなく違和感”を見逃さない感性、
自分を律する謙虚さ、
そして他者を思いやるまなざし――
それらはすべて、「畏れる心」の中に宿っています。
これは安全の話に限りません。
人との関係、社会との関わり、日々の小さな選択にも通じる姿勢です。
慎みを持ち、敬意を忘れず、丁寧に生きる。
秋が深まり、空気が澄んでくるこの季節。
私たち一人ひとりの「畏れる心」が、見えない安全を守っていくのかもしれません。
文:caritabito