「社員の不祥事に対して社長が記者会見で頭を下げ、辞任する」。
日本人にとって見慣れた光景だ。多くの人が「責任の取り方」として納得しつつも、同時に「本人が直接の加害者ではないのに」という疑問も抱く。これは日本社会特有の感覚なのだろうか。
集団主義が形づくる「辞める責任」
日本文化には、組織や共同体の調和を最優先する傾向がある。
武士の切腹に代表される「身体をもって責任を示す」伝統、村社会のなかで「迷惑をかけたら自ら身を引く」規範、そして儒教の「上に立つ者は下の行為にまで責任を負う」という思想。これらが重なり合い、近代社会でも「トップの辞任」が責任の象徴として機能してきた。
たとえば JR福知山線脱線事故(2005年) では、鉄道会社の社長が会見で深々と頭を下げ、その後辞任を発表した。事故原因が現場の運転士や過密ダイヤにあったとしても、最終責任をトップが引き受けるという姿勢が「当然」と受け止められた。辞任は「潔さ」の証とされ、組織や社会の信頼を回復するための最終手段だった。
個人主義が生む「残る責任」
一方、欧米では「誰が行為の当事者か」を明確にする個人主義の伝統が強い。
不祥事が起きれば、まず責任の所在を明らかにし、関与した人物が法や契約に基づいて処分される。トップは辞めるよりも「仕組みの欠陥をどう改善するか」「再発を防ぐために何をするか」を示すことが求められる。
たとえば フォルクスワーゲンの排ガス不正問題(2015年) では、CEOの辞任は最終的に行われたものの、欧州社会の論点は「経営トップが即座に退くかどうか」ではなく、「企業全体がどのように改革するか」「顧客にどう説明責任を果たすか」に置かれた。
また 米国のリーマン・ショック後の金融機関 では、多くのCEOが辞めずに残り、法廷での証言や組織再建にあたった。辞めることより、危機の中で責任を全うすることが「リーダーシップ」とみなされたのだ。
世界の中での日本とアジア
ただし「辞任による責任」は日本だけではない。儒教文化圏の韓国や中国でも、政治家や企業トップが部下の失態で引責辞任する事例は少なくない。
韓国では セウォル号沈没事故(2014年) の際、教育部や海洋警察のトップが相次いで辞任し、社会に対する謝罪とした。これは「上に立つ者は共同体全体の道義を背負う」という思想の名残といえる。
対照的にヨーロッパ諸国では、政治家の辞任は「政策失敗」や「直接的な関与」が明確なときに多い。日本型の“潔さ”による幕引きは珍しく、むしろ「最後まで責任を果たせ」と求められることが多い。
二つの「責任の美学」
結局のところ、どちらが優れているという問題ではない。
・日本:全体の調和を守るために退く勇気
・欧米:改革を進めるために留まる勇気
二つの責任の美学は、それぞれの文化に根差したものである。
しかし現代日本では、価値観の揺らぎが起きている。たとえば 東芝の不正会計問題(2015年) ではトップが相次いで辞任したが、その後も信頼回復が進まなかったことから、「辞めること」だけでは責任が果たせない現実が露わになった。辞めることで幕を引くよりも、「問題があっても残り続け、改革に取り組むリーダー」を求める声が強まっている。
出処進退のこれから
「辞めること」と「辞めないこと」、そのどちらが正しいかは一概に決められない。
むしろ重要なのは、その場その場で「何をもって責任とするのか」を社会全体で問い直すことだろう。潔さと粘り強さ、その両方を行き来しながら、私たちの常識も更新され続ける。
責任のかたちは、時代の価値観を映す鏡である。
そして私たちがその鏡に何を映し出すかによって、社会の未来もまた形づくられていく。
文:caritabito