ある村に、一人の絵描きがいた。
彼はいつも「ものごとの本質」を知りたいと願っていた。
村人に頼まれて「餅の絵」を描いたとき、絵描きは考えた。
――これは餅ではない。けれど、人はこれを餅と呼ぶ。
絵は現実の影にすぎないのに、影を見て心を満たしている。
次の日、「その餅の絵を描く絵を描いてほしい」と言われた。
絵描きはさらに考えた。
――餅の絵を描く私を描く。これはすでに餅からは遠く離れている。
だが、人々はそこに「意味」を感じるという。
やがて「絵に描いた餅の絵を描いた絵」が重なっていった。
現実の餅はもうどこにもない。あるのは「餅の痕跡」だけ。
それでも人々は、それを眺めて満足していた。
絵描きは混乱した。
――現実の餅を食べれば空腹は癒える。だが、この絵は何も満たさない。
それなのに、人はなぜこの無限の影に魅了されるのだろう。
そのとき、一人の旅人が通りかかった。
絵を見て、静かに言った。
「君は“存在”を勘違いしている。餅があることだけが現実ではない。
心がそれを“ある”と感じた瞬間、それはすでに存在しているのだ。
影は虚しいものではなく、私たちの思考を映す“鏡”なのだよ」
絵描きは気づいた。
絵は腹を満たすものではない。
けれど、腹を満たすものをただ食べるだけでは、人は“人”になれない。
影に意味を与え、そこに問いを見いだすとき、人は初めて「生きている」と感じるのだ、と。
そして絵描きは、また新しい「絵に描いた餅の絵」を描き始めた。
それは虚無を積み重ねる営みではなく、人が「意味」を創りだす営みそのものだった。
文:caritabito