会議の場で、誰かがまだ考えをまとめている最中に、「で、結論は?」と急かされる――そんな場面に、心当たりはないだろうか。
仕事、ニュース、SNS、そして日々の対話においてさえ、私たちは“即断”という名の圧力に晒されている。

けれど、果たしてこの速度が、私たちの思考を、感情を、そして人間らしさを育てているのだろうか。
私は、そこに深い疑問を抱いている。

今、社会全体が「鋭敏化」していると感じる。
SNSでは怒りや断言がバズり、曖昧な意見や中間的な立場は「はっきりしない」と見なされ、見過ごされていく。
迷いや躊躇は弱さの証のように扱われ、白か黒か、敵か味方か、の二択を迫られる。

しかし、本来、人間の思考とはもっと豊かで、もっと不確かで、もっとゆっくりとしたものではなかったか。

私は、「曖昧さを抱えたまま思考する力」が、今もっとも失われつつあると感じている。
それは、結論を急がない強さ。保留する勇気。揺らぎを許す寛容さ。
つまりは、“人間力”の核心のようなものではないだろうか。

人生の本質的な問いに、すぐに答えが出ることなど、ほとんどない。

 ・自分にとっての幸福とはなにか
 ・誰と、どこで、どのように生きるか
 ・過去の出来事に、どんな意味を見いだすか

こうした問いに対して、明快な正解を提示してくれるSNSの投稿や書籍は山ほどある。けれど、それを自分の答えにするには、時間と葛藤と、何より自分自身との対話が必要だ。

「急がなくていい」。
この言葉が、もっと許される社会であってほしい。

考えがまとまらないまま、揺れ動く自分をそのまま抱えていてもいい。
他人と意見が違っていても、すぐに白黒をつけなくてもいい。
答えを出さないことが、時には最も誠実な態度であることだってある。

ところが現実には、この“曖昧さ”を生きる余地が、急速に狭まってきている。
鋭敏化した思考と反応が、身近なネットの世界から経済活動、政治の言説、さらには国際情勢にまで浸透している。

 ・SNS:炎上や断定的な言葉が拡散され、熟議のやり取りはほとんど可視化されない。
 ・経済:株価や為替が一日のニュースで乱高下し、腰を据えた判断が敬遠される。
 ・政治:分断的なスローガンが注目を集め、中庸な意見は「芯がない」と切り捨てられる。
 ・国際情勢:まるでドラマのように「正義の側」と「悪の側」が仕立てられ、複雑な背景や矛盾は覆い隠される。

こうして、私たちの社会全体が、白か黒かの極端な二極化の思考回路へと収斂しているように思える。

最も懸念すべきなのは、こうした構造的な“鋭敏化”に対して、「それ自体がおかしいのではないか」と問い直す動きがほとんど見られないことだ。
まるで、この仕組みの中に思考そのものが囚われているような感覚すらある。

本来ならば、ここにこそ警鐘を鳴らすべきではないのか。
反応を煽る仕組み。敵を作って注目を集める言葉。答えを急がせる空気。
それらがどこから生まれ、誰の利益になり、どんな未来を招こうとしているのか――。

そうした根本的な問いに光を当てる視点が、社会全体から薄れていること自体が危機なのではないか。

流れに乗りながら、思考を続ける。
それは自然の中を歩くような、あるいは詩や物語を味わうような、静かな人間らしさの回復だと思う。

デジタルな即時反応が支配する世界の中で、あえて「曖昧さとともに生きる」こと。
それは、現代社会に対するひとつの小さな抵抗であり、同時に、深い知性とやさしさを取り戻す営みでもある。

その小さな抵抗は、明日をどう変えるのか――それは、あなたの中にある曖昧さが教えてくれるだろう。

文:caritabito