「ほどなく、お別れです。」
このタイトルに込められた意味が、映画を観ている途中から少しずつ理解され始めていった。私はずっと、「どこでお別れという区切りをつけるのか」を考えていたのだと思う。
はじめは、遺族が気持ちを整理できた段階が区切りなのだろう、と捉えていた。けれど物語が進むにつれて、その理解は更新されていく。遺族の整理だけでは、まだ区切りにならない。途中から私は、そこに故人の側の「気持ちの整理」も加わっていくのだと感じ始めた。さらに言えば、遺族と故人、双方の納得が重なった段階で初めて、別れは“区切り”として形を取るのではないか。納棺がただの手順ではなく、関係をひとつの形に整える儀式として立ち上がったとき、静かに「ほどなく、お別れです」という言葉が落ちてくる――その瞬間が着地点なのだと。
ところが、映画は別れの形がいつも同じではないことも示していた。不慮の事故のように、突然断ち切られる別れがある。そういうとき、遺族に「納得」など生まれ得るのだろうか。むしろ納得のないまま、どうにもならない感情を抱えて生きるしかないのではないか。そう思ったとき、タイトルの意味がもう一段深く響いた。
「ほどなく、お別れです」は、完全な決着を告げる言葉ではない。納得の到達点を宣言する言葉でもない。そうではなく――いまは“少しの間”のお別れだよ、という言葉なのだ、と。区切りがつけられる別れもあれば、区切りがつけられない別れもある。その両方を受け止めたうえで、それでも人が前に進むために必要な距離を差し出す。タイトルは、その距離感まで含んでいた。
ここまで考えて、私は自然とキャリアコンサルティングの場面を思い浮かべていた。キャリアの相談もまた、未来を語る場でありながら、実際には「過去にどう区切りをつけるか」を扱うことが少なくない。やりたかったができなかったこと。続けたかったが終わってしまった役割。言えなかった言葉。わかり合えなかった関係。出来事そのものは変えられない。それでも、その出来事にどんな意味を与え、どんな距離に置き直すかは、これからの生き方に影響する。
面談の中で起きるのは、過去を“消す”ことではなく、過去に“納得の居場所”を与えることだと思う。腑に落ちる形に並べ替え、未完了だったものを少しずつ完了へ近づける。そうして「ここまでの自分」に区切りがついたとき、人は初めて「これから」を見られるようになる。映画で描かれていたのも、まさにそのプロセスだった。
ただ、キャリアにもまた、不慮の事故のような出来事がある。望まない異動、突然の病気、介護、制度変更――本人の努力や準備とは無関係に、区切りを強いられる局面がある。そういうとき、すぐに納得へ着地できないこともある。それでも支援ができるとすれば、それは「納得しなさい」と促すことではなく、納得できないままでも生きていける“ほどよい距離”を一緒に探すことなのだと思う。
納得に着地する区切りもある。納得を保留したまま進む区切りもある。どちらの場合でも、人は“ほどよい距離”を見つけながら進むしかない。そのことを、あの一言が静かに教えてくれた気がした。
文:caritabito