今朝、テレビを眺めていたら、二宮和也さんが「面白がる」という言葉を使っていた。
しかもそれは、気楽に笑うとか、余裕を装うとか、そういう話ではなかった。相手に優しく接することが「面白がる」ことにつながる――そんな趣旨に聞こえた。

面白がる。
それは、相手を断罪の対象にせず、「この人は、どういう事情でそう言うのだろう」と一度立ち止まる態度だ。理解しようとする。決めつける前に問い直す。相手を“人”として扱う。
優しさとは、弱さを甘やかすことではなく、相手を共同の当事者として認めることなのかもしれない。

ここから、私は政治のことを考え始めた。
この姿勢は政治思想で言えば何に当たるのか。右か左か。保守か革新か。
しかし、考えていくうちに分かったのは、これは政策の左右というより、政治の「作法」に近い、ということだった。

私が欲しいのは、強い言葉で引っ張ってくれる“決断”ではない。
生活が苦しい人が増えれば、結果を求める声が強まるのは分かる。だから「成果(生活の強さ)」が求められること自体を責めたいわけではない。
けれど私は、別の強さを求めている。

それは、説明の強さだ。
しかも、データでねじ伏せる強さではない。反対する人の不安や痛みを「あるもの」として受け止め、言葉を選び、納得の回路を残す強さである。

政治の議論は必ず誰かに負担を求める。負担がある以上、痛みが出る。
その痛みを“なかったこと”にしたまま押し切ると、結果は短命になる。結局、社会の分断コストが膨らみ、次に必要とされるのは、さらに強い言葉、さらに強い敵味方の整理になってしまう。

最近の空気を見ていると、雰囲気で支持が決まり、説明の場が軽んじられていく気がして、私は少し怖い。
討論の場に出ない。都合が悪いときに言葉が途切れる。矛盾が出ても修正の筋道が見えない。
そうした姿勢は「勝つためには合理的」なのかもしれないが、民主主義の品質としては劣化に見える。相手を当事者として扱っていない、という感覚が残る。

ただ、希望もある。
政党の中にもいろいろな考え方がある。内部に異論があること、ブレーキが複数あることは、極端な方向へ振れにくくする装置になる。私は、そのバランスが働くことを望んでいる。

面白がる、という言葉が、ここで戻ってくる。
政治を面白がるとは、軽く眺めることではない。「この社会で、誰がどんな痛みを引き受けているのか」を丁寧に見つめることだ。
そして、反対する人を敵にせず、同じ場に座れる言葉を残すことだ。

私は、政治に“優しさ”を求めている。
それは甘さではない。
説明の場に出ること。間違いがあれば修正すること。置き去りにしないこと。
そういう当たり前の作法を、当たり前として守る強さを求めている。

文:caritabito