彼は、棚の奥にしまい込んでいた段ボール箱を引き出した。
引っ越しのたびに持ち歩いてきたが、ここ数年は、ほとんど開けることのなかった箱だ。
蓋を開けると、紙の匂いが、わずかに立ち上った。
ノート、写真、折りたたまれた地図。どれも、すぐには捨てられなかったものばかりだ。
一冊、薄いノートを手に取る。
表紙の端が少し折れていて、角が丸くなっている。
若い頃の文字だった。
勢いがあり、余白を埋めるように書かれている。
考えというより、衝動に近い言葉が、そのまま並んでいた。
「とにかく、やってみる」
「考えるのは、あとでいい」
そんな言葉が、何度も出てくる。
当時の自分は、迷っていなかったわけではない。
ただ、迷いながらも、止まらずに動いていた。
写真も何枚か出てきた。
少し日焼けした顔。
どこか遠くを見ているような視線。
あの頃は、「面白がり」という言葉を、意識していなかった。
ただ、目の前のものに、自然と引き寄せられていただけだ。
彼は、ノートを閉じた。
いまの自分は、あの頃より慎重だ。
立ち止まる時間も、ずっと長い。
だが、それを後退だとは思わなかった。
若い頃の面白がりは、勢いだった。
今の面白がりは、選び取るものになっている。
何に近づき、何から距離を取るか。
どこまで踏み込み、どこで留まるか。
更新されたのは、好奇心そのものではなく、扱い方だった。
彼は、写真を元の場所に戻し、ノートだけを机の上に置いた。
もう一度読むためではない。
ここにある、ということを、確かめるためだ。
回帰する必要はない。
あの頃に戻らなくても、続きは、いまの場所から書ける。
面白がりは、若さの特権ではなかった。
成熟したぶんだけ、深く、静かに続いていく。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
彼は、ノートをそっと閉じた。
それでいい、とまでは言わない。
だが、悪くない更新だとは思えた。
―終わり―
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