第一章|湯に身を委ねる

前日の熱気が、まだ身体の奥に残っていた。
それでも、四万温泉へ向かう車を走らせているうちに、気持ちは少しずつ次の場所へ移り始めている。

行き先は決まっているが、急ぐ理由はない。
仕事や予定に追われていたはずの時間が、いつの間にか輪郭を失い、もう一段落したような感覚だけが残っていた。年の瀬が近づくとき特有の、少し歪んだ時間。その中を、車は静かに進んでいく。

この旅のきっかけを辿ると、意外なところに行き着く。
ドラマ『ザ・ロイヤルファミリー』を見ていたこと、そして年末の有馬記念を現地で観戦しようと決めたこと。その流れで関東に住む子どもたちに声をかけると、ありがたいことに賛同してくれた。入場券も、抽選に何度か挑戦した末に、何とか手に入った。

息子が、有馬記念の日を含めて三日間休みが取れるという。
せっかくなら競馬だけで帰るのではなく、どこかで身体を休める時間も持ちたい。そんな話の中で、「温泉にでも行きたいな」という言葉が出てきた。そこで、有馬記念の翌日に立ち寄れそうな関東近郊の温泉地を探し始めた。

群馬県の温泉をいくつか見ている中で、たまたま目に留まったのが四万温泉だった。
その中でも「たむら」という宿。料金が現実的だったこともあるが、それ以上に惹かれたのは、その歴史だった。室町時代、永禄六年(1563年)創業。数々の文化人に愛されてきた宿だという。画面越しに並ぶ情報を眺めながら、もし時間に厚みというものがあるのなら、この宿にはそれが積もっているのだろう、そんな気がした。

朝九時を少し過ぎて、娘の住むマンションを出発する。
時間はたっぷりあった。途中のパーキングエリアやサービスエリアで車を止め、コーヒーを飲み、身体を伸ばす。その一つひとつが、日常の速度を落とすための小さな儀式のように思えた。

夕方四時過ぎ、四万温泉の「たむら」に到着する。
山の影が長く伸び始める頃で、温泉地全体が、外界と切り離された場所のように静まっていた。玄関をくぐった瞬間、空気の質が変わる。音がやわらぎ、視線が自然と内側に向いていくのがわかる。

「甍の湯」「森のこだま」「御夢想の湯」など、
この宿には性格の異なる湯がいくつも用意されている。
どれか一つを選ぶというより、
滞在そのものが“湯の時間”になる宿だった。

部屋に荷物を置き、ひと息ついてから、湯へ向かった。
向かった先は、大浴場「甍(いらか)の湯」と、露天風呂の「森のこだま」。
移動の疲れを取るため、というよりも、ここまで張りつめていたものを一度すべて預けてしまいたかったのかもしれない。

湯に身を沈めると、身体の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。
考え事は続けようとしなくても勝手に途切れ、代わりに、ただ湯の温度と呼吸だけが残った。

四万温泉の湯は、何かを与えるというより、余計なものを持ち去っていくような感触がある。
肩の力が抜け、思考の輪郭が曖昧になる。その曖昧さを、そのままにしておける場所があることが、今はありがたかった。

第二章|祝われる夜

湯から上がると、身体が少し軽くなっていた。
劇的に何かが変わったわけではない。ただ、肩の内側にあった力が、いつの間にか抜けている。廊下を歩く足取りが、来たときよりもわずかに柔らいでいるのが、自分でも分かった。

夕食までには、まだ少し時間がある。
部屋に戻り、窓の外を眺める。山の稜線はすでに影に沈み、温泉街の灯りが、必要な分だけ点いていた。にぎやかさはないが、寂しさとも違う。ここでは、夜が急がない。

やがて、夕食の時間になった。
正月を意識した献立で、料理はどれも派手ではないが、手間がかかっていることが伝わってくる。最初の乾杯を終え、食前酒を少し口に運んだ、その直後だった。

妻が、ふとこちらを見て言った。
「今日はね、お父さんのキャリコン合格のお祝いも兼ねてるんだよ。子どもたちから、お祝いの品を渡すね」

そう言われて、娘が包みを差し出してきた。
細長いその形を見て、すぐにネクタイだと分かった。包みを開けると、柔らかい色合いの一本が現れる。「キャリコンで相談するときに使えるように、優しい感じの色を選んだよ」と娘が言う。その言葉を聞いただけで、胸の奥が少し熱くなった。

「それから、ここにメッセージが書いてあるから、読んでみて」

そう促されて、カードを手に取る。
そこには、息子の字で、こう書かれていた。

「60歳を超え、このキャリアでさらに求められ、
挑戦する姿勢、本当に誇りに思います。
合格おめでとうございます」

読み終えた瞬間、視界が滲んだ。
試験に合格したことそのものよりも、そこに至るまでの時間を、きちんと見てくれていたのだという事実が、胸に迫ってきた。自分では語らずにきた歳月を、言葉にして返されたような気がした。

祝福されるというのは、不思議な体験だ。
「頑張ったね」と言われるよりも、「ここまで来たね」と静かに肯定される感覚に近い。評価されるのではなく、時間ごと受け止めてもらったような気がした。

食事はそのまま続き、会話もまた日常的な話題へと戻っていった。
だが、場の空気は少しだけ変わっていた。何かを達成した夜というよりも、一区切りを無事に越えた夜。湯に浸かり、食事をし、言葉を受け取り、ようやく身体と気持ちが同じ場所に戻ってきたような感覚があった。

部屋に戻る頃には、外はすっかり夜の色になっていた。
窓を開けると、冷えた空気が静かに流れ込んでくる。昼間とは違う、澄んだ匂いがする。布団に腰を下ろし、そのまましばらく動かずにいた。

この旅は、何かを祝うためだけのものではなかったのかもしれない。
祝われることで、ようやく自分自身が立ち止まることを許された。そんな夜だった。

第三章|朝の湯と、何も考えない時間

朝七時前、目が覚めた。
目覚ましに起こされたわけではない。身体のほうが、そろそろ起きてもいいと判断したようだった。布団の中でしばらくじっとしていると、遠くから微かに水の音が聞こえてくる。川なのか、湯の流れる音なのかは分からない。ただ、その曖昧さが心地よかった。

身支度を整え、家族で朝風呂へ向かう。
廊下を歩く足音は控えめで、言葉も少ない。朝の温泉宿には、声を潜めるというより、声を必要としない空気がある。

昨日は入れなかった檜風呂「御夢想の湯」に浸かる。
湯船に身を沈めた瞬間、身体がふっと力を抜いた。檜の香りが強く主張するわけでもなく、ただそこにある。天井を見上げると、夢想窓から柔らかい光が差し込んでいる。特別なことは何も起きない。それでも、時間の流れだけが、確実に遅くなっていく。

気づけば、何も考えていなかった。
今日の予定も、昨日までの出来事も、頭の中には浮かんでこない。湯の温度と呼吸だけがあり、その二つが静かに続いている。考えないようにしているのではなく、考える必要がない状態に、いつの間にか入っていた。

続いて、庭園露天風呂の「甌穴」へ向かう。
屋外の空気は冷たかったが、湯の温度が高く、寒さを意識する間もなく身体が包み込まれる。朝の光が木々の間から差し込み、湯気がゆっくりと立ち上っていく。その様子を眺めながら、ただ浸かっている。それ以上のことを、ここではしなくていい。

「いつまでも入っていたい」と思う湯があることを、久しぶりに思い出した。
時間を区切る理由は、朝食の時間だけだった。その理由さえ、どこか名残惜しい。

湯を上がり、身体を拭くと、少し空腹を感じた。
朝食は予想以上に豪勢で、自然と箸が進む。お粥に加えて、普通のご飯も二杯。食べ過ぎだと思いながらも、身体がそれを受け入れているのが分かる。今朝の湯と食事が、すでに生活のリズムを整え始めていた。

部屋に戻り、チェックアウトの時間まで、家族で他愛のない話をする。
特別な話題はない。だが、その「特別でなさ」が、今は何よりも貴重だった。何かを決める必要も、結論を出す必要もない。ただ時間が流れていく。

朝の湯は、気持ちを高めるためのものではなかった。
むしろ、気持ちを平らにするための時間だったのだと思う。そうして整えられた状態で、ようやくこの旅の続きを歩ける気がしていた。

第四章|温泉街を歩く

チェックアウトを終え、玄関先で家族四人そろって写真を撮った。
誰かに頼まれたわけではないが、自然とそうなった。こういう写真は、撮った瞬間よりも、あとになって効いてくることを、もう知っている。

宿を出ると、四万温泉の通りは思った以上に落ち着いていた。
観光地特有の呼び込みや、急かすような気配はない。人はいるが、密ではない。坂道を下りながら、その空気を、視線ではなく足裏で確かめるように歩いた。

川沿いに建つ木造の建物が、少し距離を保ちながら並んでいる。
その中に、赤い橋とともに、よく知られた宿の姿があった。アニメ映画の舞台として語られることも多い場所だが、実際に立ってみると、そうした物語よりも先に、積み重なってきた時間の層が目に入ってくる。川と建物の距離が近く、人の暮らしと湯が、無理のない形で並存している。

通りを進むと、昔ながらのゲーム館があり、射的やスマートボールの台が並んでいた。
妻と娘は射的へ向かい、私は息子と並んでスマートボールの台に立つ。特別な役割分担を決めたわけではないが、いつの間にか、そういう並びになっていた。

玉を弾くと、乾いた音が館内に響く。
狙い通りに入ることもあれば、あっさり外れることもある。結果はすぐに分かり、長く引きずる余地はない。息子と顔を見合わせ、うまくいけば小さく笑い、外れても「まあ、そんなものだな」と言葉を交わす。それだけで十分だった。

一方で、射的のほうからは、ときおり歓声が聞こえてくる。
当たった、外れた、そのどちらでも楽しそうな声がする。どちらが上手いかを競うでもなく、それぞれがそれぞれの距離感で、その場に溶け込んでいる。

当たっても外れても、それ以上の意味はない。ただ、その単純さが、妙に心地よかった。

温泉街を歩いていると、「見せるための景色」と「そこに在り続けている景色」の違いが、少しずつ分かってくる。
四万温泉は、後者の割合が多い場所だった。整えすぎず、語りすぎず、ただ残っている。だからこそ、歩く側も、余計な構えを持たずにいられる。

川の流れは穏やかで、音も主張しすぎない。
水は絶えず動いているが、急いではいない。建物も、道も、人も、その速度に合わせて存在しているように見える。ここでは、速さは価値にならない。

気がつくと、滞在中に何度も時計を見る癖が、すっかり消えていた。
何時までに、という意識が薄れ、どこまで歩くかも決めていない。ただ、行けるところまで行き、戻る。旅の時間が、再び「区切られないもの」に戻っていく。

駐車場へ向かう坂を上りながら、ふと振り返る。
温泉街は、変わらず静かなままだった。賑わいを期待して来る場所ではないが、静けさを受け取りたい人には、確かな手応えを残す街だと思った。

このあと、もう一つ、四万という土地を象徴する風景に向かう。
湯と街を歩いて整えられた身体で、今度は、別のかたちで支えられているものに向き合う。そんな流れが、ごく自然に感じられた。

第五章|旅の終わりに、もう一つの象徴へ

温泉街を後にし、車で山の奥へ。
距離にして五キロほどだが、景色の変わり方ははっきりしていた。建物の数が減り、道幅が少しずつ狭くなっていく。路肩には、うっすらと雪が残り始めている。

走るにつれて、周囲の音が少なくなる。
エンジン音と、タイヤが路面を捉える感触だけが続く。人の気配は遠のき、山が前に出てくる。先ほどまでの温泉街の穏やかさとは、質の異なる静けさだった。

トンネルを抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
目の前に現れたのは、想像していたよりもはるかに大きな構築物だった。四万川ダム。コンクリートの壁が、山あいに静かに立っている。その存在は圧倒的だが、威圧的というよりも、無言でそこに在る、という印象に近い。

車を降り、歩いて近づく。
堤体に触れると、ひんやりとした冷たさが手に伝わる。ここでは、自然はそのままではなく、形を与えられている。水は溜められ、流れは管理され、力は制御されている。それでも、全体として漂っているのは、緊張感よりも静けさだった。

湖のほうへ目を向けると、水面が不思議な色をしていた。
いわゆる「四万ブルー」と呼ばれる色だと知ってはいたが、実際に目にすると、単純に青い、という言葉では足りない。光の当たり方や角度によって、色合いが微妙に変わる。立つ位置を少し変えるだけで、表情が違って見えた。

説明板に目を落とすと、この色の理由が記されている。
水の透明度、微細な粒子、光の波長。理屈としては理解できる。それでも、読み終えてからもう一度湖を見ると、納得したというより、むしろ不思議さが増したような気がした。

この水は、美しさのために存在しているわけではない。
洪水を防ぎ、暮らしを守り、電気を生み出すために、ここに溜められている。ダムは、癒やしの場所ではない。けれど、支えるという役割を、黙々と果たし続けている。その結果として、今、目の前にこの風景がある。

温泉でほどけた身体と心で、この場所に立っていることが、不思議に思えた。
もし最初にここへ来ていたら、感じ方は違っていたかもしれない。湯に浸かり、街を歩き、速度を落としたあとだからこそ、この巨大な構造物と向き合えている。そう感じていた。

ダムをひと通り歩いたあと、近くの資料館のような建物に立ち寄った。
身体はまだ、あの堤体の冷たさと、水の重さを引きずっている。

展示室の壁に、一枚の古い地図が掛けられていた。
四万温泉が、まだ今とは違う姿をしていた頃の様子を描いたものだった。

山の稜線と川の流れ、その間に点在する建物。
細かな線で描かれた集落の中に、見覚えのある名前がいくつも見つかる。宿泊した「たむら」、そして赤い橋の向こうに佇んでいた「積善館」。どちらも、現在とほとんど変わらない位置に記されていた。

道の向きも、川との距離も、大きくは違っていない。
時代が変わり、建物が建て替えられ、人の営みが更新されてきたはずなのに、この場所は同じところで湯を湧かせ、同じ流れのそばで人を迎え続けてきたのだと思うと、不思議な感覚になる。

ダムの前では、「支える」という行為が、巨大な構造物として目の前に立ち上がっていた。
一方、この地図に描かれているのは、もっと静かな支え方だ。派手さはないが、長い時間をかけて積み重ねられてきた選択と営みが、紙の上に沈んでいる。

観光のために整えられた図ではない。
誰かに説明するためというより、ここに在ったものを、そのまま写し取ったような地図だった。だからこそ、こちらも構えずに眺めることができる。

ダムという「制御された自然」を見たあとで、この地図を見ている。
その順番に、意味があるように思えた。

人は、自然の中で生きているというより、自然と折り合いをつけながら生きているのかもしれない。
四万川ダムと、この古い地図は、その事実を、違うかたちで示していた。

静かな展示室で、もう一度、湖の色を思い浮かべる。
四万の水は、湯として、人の暮らしとして、そしてダムというかたちでも、この土地を支えてきた。その連なりを、ようやく一本の線として思い描けた気がした。

外へ出ると、湖は変わらず、青く静かに広がっていた。
その色を、今度は少し違う重さで、目に焼きつけてから、車へ戻った。

第六章|帰路と、余韻

正午を少し回った頃、四万川ダムを後にした。
来るときには期待に満ちていた同じ道が、帰りにはどこか違って見える。景色が変わったわけではない。ただ、自分の中の何かが、静かな場所へ移動していた。

山道を抜け、高速道路に入ると、事故による渋滞がいくつか続いた。
思ったより時間はかかったが、不思議と苛立ちはなかった。急いだところで、何かが早まるわけではない。車の流れに身を任せながら、これも旅の一部なのだと、自然に受け止めていた。

娘のマンションに戻り、最後に家族四人で駅前のラーメン屋に入る。
特別な店ではない。けれど、こういう場所で食べる一杯が、妙に記憶に残ることがある。湯の話、道中の話、そしてこれからの予定。会話はいつもの延長線にありながら、どこか穏やかだった。

翌日から仕事に戻る息子とは、ここで別れる。
大げさな言葉は交わさない。手を振り、それぞれの時間へ戻っていく。その後、私と妻、娘は少し休憩してから、岡山へ向かうことにした。

車に乗り込み、エンジンをかける。
一度、深く息を吐いてから、再び走り出す。窓の外には、見慣れた道と、これからまた続いていく日常が広がっている。けれど、その景色の見え方は、出発したときとは同じではなかった。

ー終わりー

Stories on the way.

文:caritabito