
大塚国際美術館を訪れた日のことを、
いまも断片的に思い出す。
喧騒から切り離されたような展示室を歩き、
ふと足が止まった先に、米津玄師『Lemon』のジャケット陶板があった。
音も言葉もないのに、そこだけがわずかに静度を変えている。
その前に立った瞬間、胸の奥に“何かが触れた”という感覚だけがはっきり残った。
近づいて見ると、檸檬の皮は意外なほど固く見えた。
触れれば乾いた音を返しそうなほど、
輪郭がしっかりとそこに“生きている”。
檸檬は、本来時間の中で熟し、変化し、いつか朽ちる存在だ。
だからこそ、この固さは“変わらなさ”の象徴のように感じられた。
季節や手触りに左右されることなく、
ただ“ひとつの核”としてそこにある固さ。
だが、そのすぐ上に広がる光は、まったく性質が違っていた。
白く、平面的で、どこにも向かおうとしない。
よく見ると、その左端はまっすぐの線になっている。
あれは窓の輪郭だ。
そう気づいた瞬間、光は“差し込んでいる”はずなのに、
なぜか時間の匂いを持っていなかった。
窓の光とは本来、時間の流れそのものだ。
朝の青さ、昼の硬さ、夕方の赤み――
光の色は時間を運ぶ。
だが、この光は違った。
どの時間にも属さず、どこへも伸びず、
ただ“存在している”だけだった。
檸檬は時間に属し、
光は時間から自由だった。
同じ画面にいながら、別々の世界に立っている。
その対比が胸の奥で静かに軋んだとき、
ふいに懐かしさのようなものが立ち上がった。
けれどそれは、過去の明確な記憶に結びつく懐かしさではない。
“子供の頃に光そのものとして世界を感じていた頃”の、
言葉になる前の懐かしさだった。
あの頃、朝の光は「朝」ではなく、
ただ白く広がる“何か”だった。
時間の前にある光。
その断片が、陶板の前でふっと蘇ったのだと思う。
檸檬の固さは、世界の手触りのようで、
光の平面は、世界がまだ形を持つ前の気配のようだった。
生きものと、時間を離れた光。
その両方がひとつの画面に共存していることには、
どこか哲学的な沈黙が宿っていた。
絵の意味を理解したわけではない。
ただ、世界を受け取る感覚の原点に少し触れた――
それだけが確かだ。
あの日の陶板の前で感じたことは、
いまも言葉になりきらず、
けれど確かに私の中に残り続けている。
時間の中にいる檸檬と、
時間の外側にいる光。
そのわずかなあいだに立つ自分の感覚が、
どこか静かに息づいている。
文:caritabito