北へ向かう道は、春へ向かっているはずなのに、まだ冬の名残を強く引きずっていた。
西園智久は、フェリーを降りて港へ向かう道の脇に積もる灰色がかった雪を見ながら、ハンドルをゆっくり切った。
三月初旬の函館は、暦の上ではもう春なのに、風はまだ冷たい。
海から吹いてくる空気は細く硬く、頬に触れるたび、言葉を少なくさせる。道路の端には溶けきらない雪が残り、空は明るいのに白かった。陽射しは少しずつ長くなっているはずなのに、季節そのものは、まだ簡単には身を明け渡さないでいる。
助手席では、志穂が膝の上に小さな地図を広げていた。
ページの端を押さえる指先が、窓からの冷気で少しかじかんでいる。
「市場の近く、このあたりなら停められそうね」
「うん。朝のうちなら、まだ空いてるかもしれない」
「よかった。今日は風が強いから、歩く距離は短い方が助かるな」
志穂がそう言って窓の外を見た。
旅のあいだの寝床であり、小さな書斎でもあるキャンピングカーの車内には、朝淹れたコーヒーの匂いが、まだわずかに残っていた。座席の後ろには折りたたみのテーブル、小さな流し、読みかけの文庫本、手帳。必要なものだけを積み込みながら、その土地ごとに違う空気を受け入れていく、小さな移動の部屋だった。
役割を失って、宙に浮く人がいる。
役割を背負う手前で、まだ足を踏み出せない人もいる。
以前、新潟の港町で出会った佐々木の顔が、ふとよぎった。
「自由に失敗してる」と言ったときの、あの戸惑いを含んだ目。
言葉になったぶんだけ、風の通り道が変わる。そう信じたくなるほどに、その一言は彼の中に残っていた。
今回の旅も、きちんと計画されたものではない。
仕事の予定と予定のあいだに、かろうじて差し込めた短い時間。
それでも西園は、その時間をただの空白にしたくなかった。人の話を聴く仕事をしていると、自分の体のほうが先に鈍っていくことがある。景色を見ていない目、季節に触れていない皮膚、風を吸い込んでいない肺。そういうものが、知らないうちに“聴く力”から抜け落ちていく気がした。
だから、北へ来た。
春の手前にある土地で、まだ言葉になりきらないものの気配に触れるために。
函館の朝は早い。
市場の周辺は、観光客が本格的に動き出すより前から、もう仕事の時間に入っている。トラックの音。長靴がコンクリートを打つ音。箱を運ぶ音。短い掛け声。海の匂いに混じって、昆布や魚の脂の匂いが流れてくる。冬の寒さをくぐり抜けてきた土地だけが持つ、少し硬質な生活の匂いだった。
西園は市場の近くに車を停めた。
エンジンを切ると、車内に小さな静けさが落ちる。志穂はマフラーを巻き直しながら、窓の外へ目を向けた。
「私は少し市場を見てくるね」
干物や海藻の並ぶ店先のほうを見ながら、志穂が言う。
「うん。私はあの食堂に入ってみる」
西園がフロントガラスの向こうを指すと、志穂はうなずいた。
「じゃあ、あとで車で」
「寒いから、無理しないで」
「そっちもね」
短いやりとりを交わして外に出る。
風はやはり冷たかった。息を吐くと白くはならないが、肺の奥まで入ってくる空気にはまだ十分な冬が残っている。足元には水気を含んだ雪のかけらが残り、靴底が時折、ざらりとした音を立てた。
市場の通りに入ると、人の流れが急に濃くなる。
立ち止まって写真を撮る人。海産物の箱を見て声を上げる人。迷わず店に吸い込まれていく地元の人。
観光の速度と、仕事の速度。
その二つが混じっているのに、不思議とぶつからない。町そのものが、両方の歩き方を知っているようだった。
西園は、通りの一角にある小さな食堂に入った。
引き戸を開けた瞬間、湯気と味噌の匂いが一気に顔を包む。暖房の熱が頬に当たり、指先のこわばりがゆっくりほどけていく。
店内は広くはなかった。
カウンター席と、四人がけのテーブルがいくつか。壁には手書きのメニューが並んでいる。焼き魚定食、ほっけ定食、いくら丼、三色丼、朝定食。どれも観光地らしい華やかさを持ちながら、それ以上に“ここで働く人が、ちゃんと腹を満たせる店”という感じがあった。
西園はカウンターの端に座り、「朝定食を」と頼んだ。
店員の女性が、濡れた手をエプロンで軽く拭きながら、「はいよ」と応じる。そして、温かいおしぼりを差し出した。
そのおしぼりを受け取った瞬間、西園はふと、以前立ち寄った新潟の港町の食堂を思い出した。
場所は違う。空気も違う。けれど、港町の食堂には、どこか似た“入口”がある。冷えた手を温めるもの。黙って座っても、それを責めない空気。人が、仕事でも人生でもなく、まず「食べる人」に戻れる場所。
店のテレビでは、朝の情報番組が小さな音で流れていた。
隣の席では作業着の男たちが短い言葉を交わし、向こうのテーブルでは観光客らしい若い夫婦が地図を広げている。
誰もが、それぞれの一日の始まりにいる。
そのとき、引き戸がまた開いた。
冷たい外気が一筋、店の中を横切る。
入ってきたのは、四十歳前後の男だった。
紺色のジャケットに白いシャツ。スーツほど堅くはないが、休日の服装とも言い切れない。背筋はまっすぐなのに、肩だけが少し詰まって見える。まるで、体の中にしまいきれない緊張を、上半身だけで受け止めているようだった。
男は店内を一度見回し、カウンターの中央寄りに座った。
「いつもの、お願いします」
短くそう言って、店員に小さく頭を下げる。
その声には慣れがあった。
けれど、その慣れの中に、今朝は少しだけ余白がない。
男は席につくとすぐ携帯を取り出し、画面を見ては消し、また見ては閉じた。何かを待っているようでもあり、何も来てほしくないようでもあった。
西園の前に朝定食が運ばれてきた。
焼き鮭、卵焼き、海苔、漬物、味噌汁。湯気の立つ白飯。
味噌汁をひと口すすった瞬間、昆布の旨みが静かに舌へ広がる。熱そのものがまだ遠い季節だからこそ、その温かさが身体の中でゆっくり効いていく。
男の前にも定食が置かれた。
「ありがとう」と礼を言いながらも、彼はすぐには箸をつけなかった。味噌汁の湯気を見ている。見ているというより、湯気の向こうに何か別のものを見ているようだった。
西園は迷った。
こんな朝に、知らない者どうしで会話を始めるのは、たいてい不自然だ。
けれど、話しかけること自体ではなく、そのきっかけの“軽さ”があれば、人は案外、自分で思っているより深いところまで言葉を出せることがある。
西園は、独り言のような調子で言った。
「味噌汁、昆布が強いですね」
男は少しだけ顔を上げ、西園を見た。
一瞬、訝しむような表情を浮かべたが、すぐに薄く笑った。
「……ええ。こっちはだいたい、そうですね」
「新潟と少し違います」
「新潟から来たんですか」
「いえ、前に新潟の港町でも、似たような食堂に入ったことがあって。港ごとに、出汁の感じも違うんですね」
男は、その言葉に少しだけ表情をやわらげた。
「そうかもしれませんね」
そこで会話は途切れてもよかった。
けれど男は、箸を取りながら、ふとつぶやくように言った。
「旅、いいですね」
羨望というより、遠くを見る言い方だった。
自分には今そこへ行けない、と知っている人の声。
西園は、味噌汁の椀を置いた。
「旅、というほどでもありません。仕事の合間です」
「仕事の合間……」
男はその言葉を繰り返し、小さく息を吐いた。
「自分には、そういうのがなくて」
店の中は相変わらず賑わっている。
その賑わいに紛れるようにして、男の言葉だけが静かに落ちた。
西園は、急がずに返した。
「忙しいんですね」
男は首を横に振った。
「忙しい、というより……忙しくなる前が、一番息ができないんです」
西園は、その言葉を心の中でなぞった。
忙しくなる前。
それは、始まってしまえば何とかなる人が、始まる前にだけ立ち尽くすときの言い方だ。
「始まる前が、ですか」
そう返すと、男は少し苦笑した。
「変なこと言ってますよね」
「変じゃないです」
西園は、それだけを言った。
男は箸を持ったまま、しばらく黙っていた。
そして意を決したように、ゆっくり言った。
「三上です。市役所に勤めています」
「西園です。少し、人の話を聴く仕事をしています」
「……カウンセラーみたいな?」
「そう呼ばれることもあります」
三上は、そこで初めて少しだけ力の抜けた笑みを見せた。
完全に安心したわけではない。ただ、自分の前にいる相手が“話を急がせる人ではない”と分かった笑みだった。
「……管理職の打診がありまして」
唐突だった。
けれど、たぶん彼の中ではその話しかなかったのだろう。朝定食を前にしても、味噌汁の湯気を見ても、結局そこへ戻ってくるほどに。
西園は、静かにうなずいた。
「おめでとう、って周りには言われるんですけど」
三上は、箸で漬物をつつきながら続けた。
「自分の中では、まるでそうじゃなくて」
その言葉に、飾りはなかった。
祝い事に見えるものが、自分にはそう見えない。
そのずれが、人をひどく疲れさせることがある。
「どう感じていますか」
三上は、しばらく答えなかった。
味噌汁をひと口すすり、その椀を両手で持ったまま、やっと口を開く。
「……怖いんです」
まっすぐな言葉だった。
言い訳も補足もない、そのままの一言。
西園は、すぐには何も付け加えなかった。
その言葉が店の空気の中で少しだけ落ち着くのを待ってから、短く問いかける。
「何が、いちばん怖いですか」
三上は目を伏せた。
答えを探しているというより、もう分かっているものを、どこまで出していいのか測っている顔だった。
「人を評価する側に回るのが、怖いです」
「評価する側に」
「はい。今までも、上司に腹が立ったことはありました。なんでそんな言い方をするんだ、とか、もっと見てくれよ、とか。でも、いざ自分がその立場に近づくと……自分も同じことをするのかと思ってしまう」
三上はそこで言葉を切り、額に手を当てた。
「……自分が嫌いになる気がするんです」
西園は、その言葉をそのまま受け取った。
否定しなかった。
それは能力の問題ではなく、価値観の傷つき方の話だからだ。
「自分が嫌いになる気がする」
静かに言い返すと、三上はうなずいた。
「管理職って、結局、組織の論理じゃないですか。数字とか、人事評価とか、調整とか。もちろん必要なのは分かっています。でも、自分は……」
三上は言い淀んだ。
何か少し恥ずかしいことを言う前のように、一度、目をそらす。
「人が好きで役所に入ったんです」
言ったあとで、彼は自分で少し笑った。
「青臭いですよね」
「青臭くないです」
西園ははっきり言った。
「その気持ちがあったから、ここまで働いてこられたんじゃないですか」
三上は黙った。
その沈黙は、否定の沈黙ではなく、自分でも見ないようにしていたものを、他人から言い当てられたときの沈黙だった。
店内では、隣のテーブルの客が笑っている。
魚を焼く音が奥から聞こえる。
その日常の音が、二人の会話を過剰なものにさせない。
西園は、少しだけ問いの向きを変えた。
「三上さんが、いちばん守りたいものって何ですか」
三上はすぐには答えなかった。
けれど、その質問は彼の中の何かを静かに揺らしたらしかった。目の焦点が、少し遠くへ向く。
「……家庭、ですかね」
「家庭」
「妻がいて、子どもが小学生で。今でも帰りが遅いと、家の空気がぎくしゃくすることがあるんです。管理職になれば、もっと遅くなるでしょうし……」
三上は苦く笑った。
「でも、だから断るって言うと、“家庭を言い訳にしている”みたいに見えそうで、それも嫌なんです」
西園はその“言い訳”という言葉に、三上の誠実さが出ていると思った。
家庭を大事にしている。
それを理由にすることを、自分で軽く扱いたくない。
だから余計に苦しくなる。
「言い訳にしたくないんですね」
三上はうなずいた。
「はい。……本当は、家庭も大事だし、自分の価値観も大事なんです。どっちかを捨てるみたいな感じがして、嫌で」
その言葉が出たとき、三上の肩の詰まりが、ほんの少しだけほどけたように見えた。
自分が何を守りたいのか。
それを口にした瞬間、人は少しだけ自分の地面を取り戻す。
西園は、定食の箸をいったん置いた。
「三上さん。受けるか断るか、だけで考えると苦しくなりますよね」
三上は顔を上げた。
西園はその視線を受け止めながら続ける。
「もし、“どう引き受けるなら自分を守れるか”という問いに変えたら、少し違って見えるかもしれません」
「どう引き受ける……」
「はい。たとえば、打診してきた上司に、“何が怖いか”を先に伝える。評価することに不安がある、自分の価値観を傷つけたくない、家庭との両立も大事にしたい。そのうえで、どういう受け方なら自分が壊れずに済むか、一緒に考えてもらえないか、と」
三上は目を細めた。
そんなことを言っていいのか、と問い返したい顔だった。
「……そんなふうに話して、いいんですか」
「言っていいかどうか、というより」
西園は、一度言葉を切った。
店の外を、冷たい風が走る気配がした。
「言わないと、三上さんが壊れるかもしれません」
三上は黙った。
驚いたような、見透かされたような顔をする。
けれど、西園はそこに踏み込みすぎない声で続けた。
「怖さを隠したまま引き受けると、その怖さは別の形で出ます。苛立ちとか、急な厳しさとか、無理な頑張りとか」
三上はゆっくりと視線を落とした。
「……最近、家でイライラしていました」
その告白は小さかった。
でも、たぶん本当に言いたかったのは、そこだったのかもしれない。
「それだけ、もう始まっているんですね」
西園がそう言うと、三上は小さく息をついた。
胸の奥で押しとどめていたものが、少しだけ外へ出たような息だった。
テレビから、天気予報の声が流れてきた。
「本日の函館地方は、晴れのち曇り。気温は平年並みですが、朝晩は冷え込みます」
晴れのち曇り。
朝晩は冷え込む。
人の心にも、そのまま当てはまりそうな言葉だと西園は思った。
三上は、味噌汁の椀を持ったまま言った。
「怖いって、言っていいんですね」
「怖いものは、怖いです」
西園は答えた。
「それを認めることと、逃げることは違います」
三上は、その言葉をすぐには飲み込まなかった。
口の中で何度か確かめるように、ゆっくりうなずく。
「……逃げじゃない」
「はい。三上さんが、自分を守りながら引き受けるための交渉です」
その“交渉”という言葉が、三上に少し届いたようだった。
守るか、従うか。
受けるか、断るか。
その二択だけではない場所に、初めて小さな足場が見えたときの顔だった。
食事を終え、二人はほとんど同じタイミングで席を立った。
会計を済ませて外へ出ると、まだ冷たい港の風が正面から吹いてきた。店の中の熱でほどけていた頬が、いっぺんに引き締まる。
市場の通りには、さっきより人が増えていた。
観光客の声も大きくなり、海産物を勧める店の呼び声も響いている。
それでも、空そのものはまだ白い。春が来ることは決まっているのに、その速度を誰も早めることはできない、そんな空だった。
三上は、港の方を見たまま言った。
「……上司に話してみます」
西園は黙って、その続きを待った。
三上は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。
「評価が怖いこと。人が好きで役所に入ったこと。家庭も、自分の価値観も、大事にしたいこと。……そのうえで、どういう引き受け方ならいいのか、一緒に考えてほしいって」
「今日の言葉のままで、十分だと思います」
西園はそう言った。
三上は少しだけ笑った。
その笑みは、悩みが消えた人の笑みではなかった。
ただ、自分の中にあった曖昧な塊に、少しだけ輪郭がついた人の顔だった。
「知らない人に、こんな話をするとは思いませんでした」
「港の食堂は、そういうことが起きる場所かもしれません」
西園がそう返すと、三上は小さくうなずいた。
それから少しだけ、二人は黙って海の方を見た。
水面は鈍い光を返している。
防波堤の向こうに広がる海は、まだ春の色ではない。
けれど、その冷たい広がりのどこかに、確かに季節の変わり目が潜んでいるのが分かる。
始める前の沈黙。
それは、怯えの沈黙でもある。
同時に、自分が何を大事にしたいのかを見失わないための、誠実な沈黙でもある。
西園がキャンピングカーへ戻ると、志穂は先に助手席へ戻っていた。
足元には市場で買ったらしい小さな紙袋が置かれ、中には昆布巻きと焼き菓子がのぞいていた。窓ガラスの向こうには、まだ白い空と、濡れた港の路面が見える。
「長かったね」
志穂がそう言って、マフラーをほどく。
「うん。少し、話をしてた」
「そうみたいな顔してる」
西園は苦笑した。
志穂は、誰かの話を詳しく聞き出そうとはしない。けれど、何かが心に残っていることだけは、たいてい見抜いてしまう。聞かないことが、そのまま問いかけになる人だった。
西園は運転席に座り、しばらくフロントガラスの向こうを見ていた。
道の端にはまだ雪が残り、溶けたところと残っているところがまだらになっている。季節は前へ進んでいるのに、足元だけが簡単にはついてこない。そんな朝だった。
「引き受ける前に、怖いって言っていいんだな」
ぽつりとこぼした言葉に、志穂はすぐには返さなかった。
窓の外へ目を向けたまま、小さく息を吐く。
「言わないと、春になれないこともあるんじゃない?」
西園は、その言葉を胸の中で反芻した。
春になれないこともある。
それは、季節の話のようでいて、人の心にもそのまま当てはまりそうだった。
エンジンをかけると、車体がわずかに震えた。
小さな流し台の上には、朝使ったマグカップが伏せてある。座席の後ろには手帳と地図。旅のための車であると同時に、ここは彼にとって、その日の言葉を受け止めるための小さな書斎でもあった。
冬が完全には去っていない朝、海から吹く風の中で、人はまだ「次の自分」を引き受けきれずにいることがある。
けれど、言葉になった迷いは、やがて足場になる。
雪どけが少しずつ道をひらいていくように。
西園はそう思いながら、港の道へ車を出した。
白い空の下、風はまっすぐに吹いていた。
まだ冷たいその風が、しかし確かに、季節の先を知っているようでもあった。
―終わり―
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