近ごろ、グローバリズムの反動として民族主義が強まっている、と言われる。
その説明として「多様性はコストがかかる」「同質な集団のほうが合意形成が容易だ」という話がよく出てくる。確かに、言語や慣習が似ているほど、意思決定は速い。だが、いま目の前で起きている反動は、単に“合意形成の非効率”だけで語れるものだろうか。私はむしろ、別のところに燃料があるように思う。

それは、貧困そのものというより、転落の不安が固定され、しかもそれが「属性」と「場所」に貼り付いていくことだ。

まず「属性」の問題がある。非正規、単身、ひとり親、介護者、慢性的な低賃金――こうした立場の人は、同じ社会にいても、事故や病気、失業、物価高といった衝撃に対して脆い。保険や貯蓄の厚みが薄く、支援制度も「困ってから申請する」形になりやすい。つまり生活は、常に綱渡りになる。ここで問題なのは、努力不足というより、リスクが個人に集中しやすい構造が長く放置されることだ。社会がその痛みを吸収できないとき、人は制度を信じにくくなる。

もう一つは「場所」の問題だ。都市と地方、中心と周縁のあいだに、教育や医療、交通、雇用の機会差が生まれる。賃金の高い仕事は集積する場所に偏り、若者は流出し、税基盤が弱り、公共サービスが痩せる。すると地域はさらに不利になる。この循環は、当事者にとって「自分の努力では動かせない壁」として立ち現れる。ここで生まれるのは単なる不満ではない。切り捨てられている感覚、つまり尊厳の傷である。

属性と場所。この二つが結びつくと、社会は静かに変質する。
「がんばれば何とかなる」という物語が効かなくなり、代わりに「誰が味方で、誰が敵なのか」を探す視線が強くなる。制度の設計は複雑で、変化も遅い。一方、境界の物語は単純で速い。「内」と「外」を引けば、整理できた気がする。奪われたのだ、守らねばならない、締めなければ戻る――こうした語りは、政策として正しいか以前に、心の混乱を整える力を持っている。だから支持される。

つまり、民族主義の強まりは、民族そのものが原因というより、制度が痛みを吸収できないときに、その痛みが“境界の言葉”として噴き出す現象ではないか。多様性のコストの問題ではなく、制度の問題が先にある。再分配の不足、雇用移行の弱さ、住宅や教育の負担、地域の機会の細り――こうした現実が「この社会は自分を守らない」という感覚を育てる。その感覚が強まるほど、人々は制度より物語に寄り、物語は境界を太くする。

だから本当に問うべきなのは、民族主義を道徳で裁くことでも、多様性を理想として唱えることでもない。
なぜ、属性や場所に不利が固定されるのか。なぜ、制度はそれを吸収できないのか。
境界を強める政治は、痛みを隠す包帯にはなっても、痛みの原因を治す薬にはなりにくい。もし社会が長く持続することを望むなら、目を向けるべきは「外を締める」即効性の物語ではなく、「底抜けを止める」ための制度の再設計なのだと思う。

文:caritabito