今回の選挙結果を眺めながら、ふと頭に浮かんだのは「ポートフォリオ」という言葉だった。
元立憲民主党と元公明党が合流して生まれた中道改革連合は、政治的な意味合いを超えて、どこか投資判断の失敗に似た構図を見せているように思えた。
ポートフォリオでいうなら、分散をやめ、一本の銘柄に全振りした状態。
うまく当たれば大きく勝てるが、外せば損失も一気に拡大する。
大きな塊を作るという選択は、安定運用ではない。勝つときは派手に勝つが、外したときは政治の地形そのものが変わる。その意味で今回の合流は、ある種のレバレッジを利かせた戦略だったのだと、今になって思う。
政治において「大きな塊をつくる」ことは、しばしば正義のように語られる。
対抗軸を明確にし、選択肢を単純化し、有権者に判断を促す――理屈としては分かりやすい。
だが、その裏側で失われるものもある。
異なる支持層が重なり合うことで票が増えるとは限らない。
むしろ、「どんな価値を守る政党なのか」が曖昧になった瞬間、支持は足し算ではなく引き算に変わる。
全振りとは、分散が持っていた“違和感を吸収する力”を自ら捨てる行為でもある。
結果として今回起きたのは、大勝ちでも善戦でもなく、「塊を作ったはずなのに、緩衝材が消えた」という現象だったように見える。
中道が厚みを持たなかったことで、政治全体のバランスは一気に片側へ傾いた。
ここで重要なのは、誰が悪いかという話ではない。
むしろ、戦略そのものの性質をどう捉えるかだ。
大きな塊を作るという選択は、当たれば政局を動かすが、外せば選択肢そのものを痩せさせる。今回、そのリスクが顕在化した――ただそれだけのことなのかもしれない。
そして、ここから先が本題である。
こうした状況の中で、私たちは改めて考えなければならない。
健全な議会の在り方とは、いったい何なのだろうか。
自民党がここまで大きくなった今、私は少しずつ考えを変えつつある。
もはや「与党」と「野党」の対立構造だけで、議会の健全性を測ることはできないのではないか、と。
議席数の現実を直視すれば、国会の意思決定において、自由民主党が占める比重は圧倒的だ。
そうであるならば、健全性の鍵は、野党との攻防よりも、自民党内部でどれだけ多様な議論が可視化されるかに移っているのではないかと思うようになった。
本来、政策は党内で議論され、一定の整理を経て国会に提出され、野党の質疑によって磨かれる――そうした役割分担が想定されてきた。
だが今の構図では、党内での議論そのものが、すでに国会の議論とほぼ同義の重みを持っている。
であるならば、必要なのは、党内で議論したことを国会で野党に「審議してもらう」ことではない。
むしろ、党内での意見の違い、対立、迷い、妥協の過程を、国会の場でつぶさに見せること。
それ自体が、いま求められている議会の役割なのではないだろうか。
党内で十分に方向性を固め、国会では野党に「確認」してもらう。
そうした形式的な審議が続けば、有権者の目には「もう決まっていることをなぞっている」ように映る。
結果として、政治参加への実感は薄れ、熟議という言葉も空洞化していく。
一方で、党内の異なる立場が国会の場で可視化され、
「同じ党の中でも、これだけ考えが違う」ということが示されればどうだろうか。
それは、巨大与党時代における、新しいチェック機能になり得る。
もはや、党内=密室、国会=公開という単純な図式は成り立たない。
党内=ほぼ国会。
そう認識を切り替えたとき、私たちは初めて「巨大与党時代の議会民主主義」を再設計できるのではないか。
中道改革連合の全振りが失敗に見えた今、
必要なのは新たな対抗軸を急造することではなく、
巨大な与党の内部に、どれだけの熟議を流通させられるかという問いなのかもしれない。
健全な議会とは、勝敗が拮抗している状態ではない。
異なる意見が、途中経過ごと見えるかどうか――
その一点に、いまの民主主義の体温が表れているように思う。
文:caritabito