驚きは、感情のひとつではない。
それは、世界に対する態度の変化である。
私たちはふだん、世界を“処理”している。
信号の色、会話の流れ、仕事の手順。
当たり前は便利で、当たり前があるから一日が回る。
だから大人は驚かなくなる。驚かないことで生きている。
けれど、ときどき、当たり前が一瞬だけ揺らぐ。
揺らいだ瞬間、世界は“意味”を取り戻す。
いつもの風景が、急に不思議になる。
それが驚きだ。
驚きには、深さがある。
まず、現象への驚き。見慣れたものが、見慣れなくなる。
次に、関係への驚き。出来事が、他の出来事とつながりはじめる。
そして、存在への驚き。なぜそれが在るのか、という問いが残る。
深い驚きは、派手な出来事から生まれるとは限らない。
むしろ、足元にあるものほど深い。
言葉が通じること。信頼が成り立つこと。時間が私たちを急かすこと。
近すぎて見えないものが、実は世界の根に触れている。
驚きは、意図して生み出しにくい。
降りてくる、としか言いようがない瞬間がある。
だが、驚きが降りやすい姿勢はある。
それは、判断を急がないことだ。
すぐに「良い」「悪い」「普通」に仕分けしない。
分からなさを恥じない。
問いが残る状態を、少しのあいだ守る。
驚きが消えるのは、世界が退屈だからではない。
私たちが世界を急いでしまうからだ。
急ぐほど、当たり前の膜は厚くなる。
膜が厚いほど、私たちは見えなくなる。
驚きは世界からの贈り物である。
そして奇妙なことに、それは使うほど強くなる。
驚きを失わない人は、特別な才能を持っているのではない。
ただ、当たり前をいったん保留する技術を持っている。
驚きは、思考を柔らかくする。
そして深くする。
その柔らかさと深さの中に、私たちはもう一度、世界の手触りを見つける。
文:caritabito