「で、結局どうするの?」
信号待ちのあいだに、妻がそう言った。
責めるような口調ではなかった。いつもと同じ、確認するような声だった。
彼は、すぐには答えなかった。
ハンドルに手を置いたまま、前を見ている。信号はまだ赤で、変わる気配はない。
「もう少し、考えてからかな」
そう言うと、妻は小さくうなずいた。
「そっか」
それだけだった。
車内に、言葉のない時間が落ちる。
エアコンの風の音と、遠くを走る車の気配。ラジオもつけないまま、信号が変わるのを待っていた。
急かされたわけではない。
分かってもらえなかったとも、思わない。
ただ、二人のあいだに、速度の違いがある。その事実だけが、静かに残っていた。
職場でも、似たような場面は少なくない。
「そこ、そんなに時間かける?」
「結論だけ、先に決めようよ」
会議室の空気は軽く、冗談めいた笑いも混じっている。誰かを否定するような言い方ではないし、効率を考えれば、もっともな提案だった。
彼は、頷きながらメモを閉じた。
かつては、自分も同じことを言っていた。
早く決めることが、前に進むことだと、疑いもしなかった。
だが最近、その速さに、身体のほうがついてこない。
急いで出した結論ほど、あとになって、どこかで引っかかる。
一度は納得したはずなのに、気づくと、また同じ場所に戻っている。
だから、留まる。
相談の場では、その違いが、もう少しはっきり現れる。
「早く方向を決めたいんです」
「時間がないので」
そう言われるたびに、こちらの中にも、わずかな焦りが生まれる。
役に立たなければならない、という思い。待たせているのではないか、という不安。
だが、言葉の速さと、納得の速さは、必ずしも同じではない。
彼は、ときどき、答えを置かないまま、黙って相手の顔を見る。
その沈黙に、相手が耐えられるかどうか。
そこから何かが動き出すかどうか。
留まる、というのは、何もしないことではない。
決めない、という選択を、いまは選んでいる、ということだ。
それを、どう伝えるか。
どこまで共有できるか。
妻との会話でも。
同僚との議論でも。
相談者との沈黙でも。
留まることは、相手を置き去りにすることではなかった。
その夜、彼は短いメッセージを送った。
「まだ、考えてる」
しばらくして、返事が来た。
「分かった」
それだけだった。
画面を伏せ、彼は小さく息を吐いた。
それで、十分だった。
速度は、同じでなくていい。
だが、同じ場所にいることは、できる。
それでいい、と彼は思った。
―終わり―
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