その人は、背もたれに軽く体重を預けたまま、
視線だけをこちらに向けて言った。

「……で、結局、どうすればいいんでしょう」

声は穏やかだった。
切羽詰まっているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、言葉の最後に、わずかな揺れが残っていた。

彼は、すぐには答えなかった。

テーブルの上には、相談内容を走り書きしたメモと、少し冷めかけたコーヒー。
カップの縁には、薄く口紅の跡が残っている。

「転職か、異動か、それとも……」

相手は、自分で選択肢を並べ始めた。
それぞれの利点と不安。
どれを選んだ場合に、何を失うか。

話し方は整理されていた。
何度も、頭の中で繰り返してきたのだろう。

「だから、どれが一番いいのかを……」

そこで、言葉が途切れた。

彼は、ペンを指先で転がした。
答えはいくつか思いついていた。

これまでの経験に照らせば、無難な道。
失敗の少ない選択。
理屈として整った判断。

どれも、間違いではない。
だが、それを今、口に出すことに、どうしても小さな引っかかりがあった。

彼はいつからか、すぐに形になる答えよりも、形になりきらない時間のほうに、手触りを感じるようになっていた。

遠回りで、効率も悪い。
だが、その時間を飛ばしてしまうと、後になって、同じ場所に戻ってくる。

「ここまで、ご自身で、かなり整理されていますね」

そう言って、彼はペンを机に置いた。
それ以上は、続けなかった。

相手は一瞬、眉をひそめ、視線を机の上に落とした。

答えが置かれるはずだった場所に、何もない。

沈黙が流れた。

壁に掛けられた時計の秒針が、一つ進む音が、やけに大きく聞こえる。

「……正直、早く決めないと、と思っていて」

その声は、少しだけ低くなっていた。

彼は、その言葉を、急かさなかった。

「もし、今日ここで決めた場合と、もう少し時間を置いた場合とで」

彼は、窓の外に一度だけ目をやってから、続けた。

「ご自身の中で、一番変わりそうなのは、どんなところでしょう」

問いは、軽く置いた。
拾うかどうかは、相手に委ねた。

相手は、すぐには答えなかった。
だが、先ほどとは違う沈黙だった。

選択肢ではなく、自分の感覚を探っている時間。

彼は、それを邪魔しなかった。

ロープレが終わったあと、彼は一人、椅子に残った。

答えを出さなかった、というより、答えを急がなかっただけだ。

何かが解決したわけではない。
だが、場の空気は、来たときより、少しだけ柔らいでいた。

正解を言わないことには、勇気がいる。

だがその勇気は、相手の中で考えが動き出すのを、信じて待つことでもある。

その時間を、彼は、悪くないと思った。

-終わり-

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