近年の政治を見ていると、対立軸はもはや「右か左か」「保守か革新か」といったイデオロギーそのものではなくなっているように感じる。
むしろ問われているのは、何を決めるかではなく、どう決めるのかという点ではないだろうか。
強い言葉で結論を提示し、国民に一括して信任を求める政治は、一見すると分かりやすい。しかしその分かりやすさの裏で、私たちは重要なものを失ってはいないか。
信念は何か、どんな哲学に基づくのか、その政策がもたらすメリットと同時に、避けがたいデメリットは何なのか――。
それらが十分に説明されないまま、「任せてほしい」「信じてほしい」とだけ語られるとき、有権者は判断する主体ではなく、委任する存在へと押し下げられてしまう。
民主主義において本来必要なのは、信任ではなく納得である。
人は、自分と異なる結論であっても、そこに至る過程が見え、トレードオフが正直に示されていれば、受け止めることができる。
逆に、説明されない我慢は、必ずどこかで不信や反発へと転じる。
合意形成を重んじる政治は、正直に言えばしんどい。
時間がかかる。迷いも生じる。妥協も必要になる。
ときには「決断力がない」「リーダーシップが弱い」と批判されることもあるだろう。
しかし、それらは民主主義の欠陥ではない。
民主主義を使い続けるためのコストである。
権威主義的な政治は速い。だが修正がきかない。
民主主義は遅い。だが引き返すことができる。
失敗の全額を誰かに押しつけるのではなく、社会全体で分け合いながら軌道修正できる――そのために、合意形成という遠回りを選んでいる。
だからこそ、政治は「一緒に悩む」姿勢を隠してはならない。
どこが難しいのか、何が対立しているのか、どこまでは譲れて、どこからは譲れないのか。
その過程を可視化し、共有すること自体が、政治の重要な役割なのだ。
多党化や与党過半数割れが起きると、「不安定だ」「決まらない政治だ」と批判されがちだ。
しかしそれは、民意が「急ぐな」「一人で決めるな」「調整せよ」と静かに告げている状態とも言える。
それは否定ではなく、矯正である。
若い世代の政治家や、新しい政党に期待が集まるのも、同じ文脈にある。
求められているのは、特定のイデオロギーではない。
敵を作る言葉でもない。
合意形成の手法を、誠実に、透明に語れる政治である。
時間がかかること。
迷うこと。
我慢を引き受けること。
それらに目を向けることを、私たちは避けてはいけない。
民主主義とは、楽な統治の仕組みではない。
それでもなお、それを選び続ける覚悟を共有できるかどうか――
いま問われているのは、そこなのだと思う。
文:caritabito