日本は「恥の文化」と言われる。
できるだけ失敗しないように、空気を乱さないように、未熟さを見せないように振る舞うことが、私たちの身体感覚に深く染みついている。

その文化は、社会を円滑に回すためには大きな役割を果たしてきた。一方で、失敗を語らない、語れないという副作用も生んできた。語られない失敗は、学習に変わらない。学習に変わらない失敗は、やがて同じ形で繰り返される。

私はこれまで、安全の業務とキャリア支援の両方に関わってきたが、この構造は驚くほど共通していると感じている。

安全の現場では、事故の原因を掘り下げていくと、設備や手順だけでなく、人間の心理が深く関与していることが多い。プレッシャー、焦り、慣れ、思い込み、そして「近道をしたい」という人間の本能。こうした要素が重なった結果として、事故は起きる。

事故には至らなかったものの、「ヒヤリ」とした経験、いわゆるヒヤリハットも同様だ。そこには事故防止のための重要な学習材料が詰まっている。しかし同時に、それは個人の判断ミスや省略を含むため、語る側にとっては恥でもある。

「自分のミスをさらすことになるのではないか」
「評価が下がるのではないか」
「注意力が足りない人だと思われるのではないか」

そう感じるのは、ごく自然な反応だと思う。

それでも安全の現場では、ヒヤリハットを掘り起こし、共有し、後世に伝達する取り組みを幾度となく行ってきた。事故を防ぐためには、失敗を個人の中に閉じ込めておくのではなく、組織の学習に変えていく必要があるからだ。

その中で、私が特に大切にしてきた言葉がある。

「言いにくいことを話してくれて、ありがとう」

これは単なる労いの言葉ではない。
あなたの価値は下がっていないこと、その経験が組織にとって意味を持つこと、ここでは責められないという前提を、明確に言葉にする行為である。

恥を「排除の理由」にしない。
恥を「貢献」に変える。

この意味づけの転換がなければ、ヒヤリハットは出てこない。ヒヤリハットが出てこない組織は、安全な組織ではない。単に、語れない空気を抱えた組織であることが多い。

そしてこの取り組みで、実は最も難しいのは話す側ではない。受け取る側の成熟である。

興味本位で聞かない。
犯人探しをしない。
「自分は大丈夫だ」と距離を取らない。

語られた経験を、自分や組織の学習として引き受ける姿勢がなければ、たった一人でも未成熟な受け取り方をする人がいれば、その場の空気は一瞬で凍る。

失敗を学習に変えられるかどうかは、個人の勇気の問題ではない。組織の成熟度の問題なのだ。

この感覚は、キャリア支援の現場でもまったく同じ形で現れる。

キャリア相談の場で、「まだ人に話せる段階ではなくて」「もう少し考えがまとまってから来ようと思っていて」という言葉を耳にすることがある。その背景には、相談内容そのもの以上に、未整理な自分やうまくいかなかった経験を見せることへの恥が潜んでいる場合が多い。

評価されなかった経験。
選択を誤ったと思う瞬間。
努力が空回りした記憶。

それらは本来、キャリアを考えるうえで極めて重要な素材だ。しかし同時に、「できない自分」をさらすことにもなる。だから人は語ることをためらう。

ここでも問われるのは、個人の勇気ではない。その恥を、学習に変えられる場があるかどうかである。

私自身、キャリアコンサルタントの実技試験に一度不合格になった経験がある。その事実を隠さず、セミナーの同期生や会社の先輩に報告し、自分なりに考えた原因や課題をサイト上で公開した。

恥ずかしさがなかったわけではない。しかし同時に、不思議なほど冷静に自分を見つめ直すことができた。どうすれば克服できるのか、何を練習すればいいのか、思索を重ねる時間が自然と増えていった。

しばらくして、セミナー同期生の一人がロールプレイの相手を買って出てくれた。見てくれている人がいたのだと、そのとき初めて実感した。

恥を隠さずに引き受けたことで、学習が加速し、行動が生まれ、周囲との関係まで動いていった。この経験は、安全の現場でヒヤリハットを共有したときに起きる変化と、構造的にまったく同じだった。

恥をかくこと自体に価値があるわけではない。
恥を学習に変換できる構造があるかどうかが、すべてなのだ。

キャリア支援とは、クライエントに勇気を求める仕事ではない。恥をかいても壊れない場をつくり、その経験を未来に接続する手助けをする仕事だと、私は考えている。

日本は、恥を避ける文化を持つ社会である。だからこそ、恥を学習に変えられる人、変えられる組織の存在は、これからますます重要になる。

安全の世界でも、キャリア支援の世界でも、本質は同じだ。
恥をなくすことではない。
恥を、成長の言葉に翻訳できる文化を、丁寧につくっていくことなのだ。

文:caritabito