世の中には、すでに存在しているにもかかわらず、
まだ「起きていない」という理由だけで可視化されていない脅威が数多くある。
安全の問題は、その多くがそうした性質を持つ。

原子力の安全審査も、その例外ではない。
膨大なデータと解析を前に、すべてを規制側が確認することは不可能であり、制度は必然的に「事業者が誠実に最も厳しい前提を示す」という信頼の上に成り立つ構造を取っている。

今回の中部電力の事案で特筆すべきなのは、事故が起きてから問題が顕在化したのではなく、起きる前に、その歪みが表に出たという点である。

それは、制度が万能だったからではない。
サンプリングや技術的確認が行われていたとしても、「どの前提を選び、どれを外したか」という誠実さまでは完全に担保できない。

だからこそ、この出来事の本質は、制度や審査手法よりも、一人の人間が声を上げたという事実にある。

おそらくその人は、正義感だけで動いたのではない。
規程違反を見つけたからでもない。

「ここを通してしまったら、自分は自分でいられなくなる」

その内的な一線を、はっきりと感じ取ったのだと思う。

事故が起きた後の責任の重さを、数字ではなく現実の光景として想像できたこと。
組織の中で共有されない違和感を、自分だけが引き受ける覚悟を持ったこと。
そして何より、これまで積み重ねてきた仕事や技術、安全に向き合ってきた時間を、自分自身が裏切ることだけはできなかったこと。

それらが重なったとき、沈黙よりも発言のほうが、その人にとっては「生きやすい選択」になったのだろう。

内部通報は、多くの場合、英雄的な行為としては評価されない。
何も起きなければ、社会から見れば「何もなかった」出来事で終わる。

しかし実際には、何も起きなかったのは、誰かが声を上げたからである。

もしあの声がなかったなら、組織は気づかぬまま一線を越えていたかもしれない。
その結果として失われたのは、事業の一部ではなく、会社としての信頼や、存立の基盤そのものだった可能性もある。

その意味で、声を上げた人は、問題を起こした存在ではなく、取り返しがつかなくなる前に会社を止めた人であり、結果的にその組織を救った存在だったとも言える。

ただし、それは拍手喝采を浴びる英雄ではない。
成果が目に見えず、物語として語られにくい、静かな英雄である。

ここで、もう一つ大切な視点がある。

今の時代、多くの組織は、同調圧力によって、少しずつおかしくなっていく。
誰かが明確に「間違っている」と言わなくても、違和感が語られないまま、「前例」「空気」「説明のしやすさ」によって物事が進む。

そうした環境の中で、声を上げる人が一人でも存在できたという事実は、その会社が完全には壊れていなかったことを示している。

不正が起きた会社かどうかではない。
不正が起きる前に、内側から止める可能性を持っていた会社だったかどうか。

私は、むしろそこを評価したいと思う。

英雄を英雄として称えなくてもよい。
名前を残さなくてもよい。
ただ、「立ち止まれた」という事実を、組織と社会が忘れずに引き受けていくこと。

そして、声を上げた人を特別な存在にして終わらせるのではなく、その声が上がらずに済む設計や、上げた声が孤立しない組織を考え続けること。

同調圧力で静かに歪んでいく会社が多い今だからこそ、一人でも声を上げられる人がいる会社を、私は評価したい。

それが、この出来事から、私たちが引き受けるべき、次の問いなのだろう。

文:caritabito