原子力発電所の再稼働をめぐる議論は、しばしば「賛成か反対か」という二項対立に回収されていく。しかし、今回表面化したt中部電力の地震リスク評価データの不適切な扱いをめぐる問題に触れ、私の関心は別の場所へ向かった。それは、原発再稼働をめぐって社会の中にどのような圧力が存在し、それがどの方向から、どの程度の強さで、どれほど移ろいやすく作用しているのかという点である。

見つけたのは規制ではなく、内部からの声だった

今回の問題が明らかになったきっかけは、原子力規制当局の審査による指摘ではなく、内部告発だったと報じられている。地震リスク評価という、原発の安全性の根幹に関わる事項が、なぜ審査の場で直接的に見抜かれなかったのか。この点に、私は強い違和感を覚えた。だが考えてみると、単純に「審査が甘かった」と断じるのは正確ではないように思える。原子力規制の審査は、事業者が提出した膨大な技術資料を、規制基準への適合性という観点から検証する仕組みであり、すべての解析や判断を一から再計算するものではない。そこには、事業者が誠実に前提条件を提示しているという「信頼」が、どうしても組み込まれている。今回の事案は、その信頼の前提が、内部から揺さぶられた瞬間だったのではないか。

一人の判断では済まない問題

地震リスク評価は、個人の裁量で軽々と操作できるような性質のものではない。再稼働の可否、安全対策の内容、さらには対策に要する投資額にまで直結する。だからこそ私は、今回の恣意的な操作が、一人の担当者だけの判断で行われたとは考えにくいと感じている。上位者の承認があったのか、あるいは過去からの慣行として「そうしてきた」結果なのか。いずれにせよ、そこには個人を超えた組織的な文脈が存在していた可能性が高い。
特に気になるのは、評価結果と投資判断の関係である。耐震・安全対策は、評価値がある閾値を超えた瞬間に、必要な対策内容と投資額が非連続に跳ね上がる。数値がわずかに変わるだけで、数十億円規模だった投資が、数百億円、あるいはそれ以上へと変わることもあり得る。もし「この投資額は現実的に受け入れがたい」という判断が先にあり、そこから前提条件を遡って調整してしまったのだとすれば――それは単なる技術的不正ではなく、経済合理性が安全判断を後ろから規定してしまった構造の問題である。

圧力は命令ではなく、空気として存在する

ここで言う「圧力」とは、誰かが明確に命令するようなものではない。むしろ、「再稼働を待ち望む地域の声」「国のエネルギー政策」「電力の安定供給への期待」「コストやスケジュールへの意識」こうした要素が重なり合い、「この範囲に収まるはずだ」という空気として現場に作用する。そのとき、安全評価は守るべき前提条件ではなく、達成すべき制約条件へとすり替わる。この転換点に立たされたとき、個人の倫理だけで踏みとどまることは、決して容易ではない。

予知できないものを、条件付きで引き受けるということ

地震は予知できない。その規模が、計算通りに収まるとも限らない。このことは、おそらく多くの人が頭では理解している。それでもなお、原子力発電所を運転するかどうかを判断するために、原子力規制という制度が存在している。それは、「一定の条件を満たしている限りにおいては、原発を動かしてもよい」という社会的合意が、少なくとも制度上は成立していることを意味している。
重要なのは、規制当局が「安全を保証する機関」ではないという点だ。規制は基準への適合を確認するのであって、万が一事故が起きた際に、その責任を引き受ける主体ではない。つまり原発は、条件を満たしたうえで、それでも起こり得るリスクを社会が引き受けるという前提で運転される存在である。

条件のズレと、覚悟の所在

今回問題となった前提条件のズレや、恣意的な操作は、手続き上もちろん許されない。制度は、条件が守られることによってのみ成立するからだ。しかし同時に、原発稼働という行為の本質を考えれば、どの条件を採用したとしても、不確実性が完全に消えることはない。条件を厳しくすれば安全側に寄るが、コストは跳ね上がる。条件を緩めれば現実的にはなるが、残存リスクは増える。このトレードオフを前にしたとき、「どの条件が正しいか」という技術論だけでなく、その条件のもとで、社会はどこまでの結果を引き受ける覚悟があるのかという問いが、必ず立ち上がる。原発を動かすという決断は、事業者だけのものでも、規制当局だけのものでもない。制度上は、国民の合意のもとで行われていることになっている。だが実際には、「電気は必要だ」「CO₂は減らしたい」「料金は上げたくない」「事故は起きてほしくない」という願いが、同時に語られることが多い。その中で、「それでも使う」という覚悟が、どこまで共有されているのかと問われれば、正直なところ、大きな疑問が残る。

原発は、社会の成熟度を映す鏡である

原発は、安全か危険かを測る装置である以前に、社会が不確実性とどう向き合うかを映し出す鏡なのかもしれない。予知できないものを、条件付きで引き受ける。その条件を守ること。そして、条件を満たしても起こり得る結果を引き受けること。この二つを、社会は本当に自分の言葉として語れているだろうか。
今回の出来事は、原発をどうするかという問い以前に、私たちがどこまで覚悟を引き受けられる社会なのかを、静かに問い返しているように思う。

文:caritabito

投稿者

caritabito

条件付きで引き受けるということ ― 原発再稼働と社会の覚悟件のコメント

  1. あとがき
    私自身、かつて社内で安全に関わる業務に携わったことがある。
    その中で強く感じたのは、安全の多くが数値で明確に線引きできるものではなく、最終的にはコストという現実と向き合わざるを得ない、という事実だった。
    だからこそ私は、結果だけでなく、その判断に至るプロセスがどのような圧力のもとで形成されたのかを、丁寧に見ていく必要があると感じている。

    caritabito

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