―境界線をどう描くか、という永遠の問い―

明確にするべきか、曖昧なままにしておくべきか。
たぶんこの問いは、古くから人間が向き合い続けてきた問題のひとつだと思う。
心を扱うとき、明確すぎる言葉は、感情の輪郭を固めすぎてしまう。
だからカウンセリングや対話の場では、すこし曖昧なくらいがちょうどいい。
曖昧さが、相手の心の余白を守るからだ。

一方で、外の世界に接続される領域――組織、契約、責任、国家、外交――では、
あいまいな線引きは、しばしば混乱や対立を生む。
曖昧さは優しさでもあるが、同時に、責任の所在をぼかす危うさも抱えている。

私たちはこの両極の間で、いつも揺れている。

■ 曖昧さは「弱さ」ではなく、しばしば「知恵」である

日本外交は長いあいだ、台湾問題について「戦略的曖昧さ」を維持してきた。
それは、立場を明確にすることで対立を刺激しないようにするためだった。
明確にしすぎれば、相手の警戒を強め、無用の緊張を生む。
曖昧にすることで、ギリギリの均衡を保つ――
それは弱さではなく、非常に繊細な調整技術だった。

曖昧さが守ってきたものは、小さくはない。

外交の世界では、あえて曖昧さを残すことにより、
相手が過度に反応しないようにする“緩衝材”が存在する。
それが取り払われると、一気に情勢が硬直してしまう。

■ 明確化がもたらす「不可逆の波」

しかし先日、高市総理が台湾有事と存立危機事態を結びつけるような発言を行い、
これまで曖昧にされてきた部分を“明確化”してしまった。
国内向けには「毅然とした姿勢」と受け止められるかもしれない。
しかし国際社会にとっては、曖昧に保たれていた境界線が、
急に太い線で引かれたように映る。

明確化とは、一度行えば後戻りが難しい選択である。
特に外交の舞台では、その線を引いた瞬間から、
反応の連鎖が起こる。
今回の一件が国際的な論争へ発展したのは、
まさにこの“不可逆性”が働いた結果だ。

曖昧さには緩衝機能がある。
明確化には抑止力がある。
どちらが正しいかではなく、どちらを選び、どの程度踏み込むかが重要なのだ。

■ 人間の心と政治の現場に流れる、同じ構造

興味深いのは、
心の領域でも、社会・政治の領域でも、
この構造がほぼ同じように存在していることだ。

心の世界では、曖昧さが余白をつくり、内省を促す

対外的な世界では、明確さが秩序と責任を守る

そして国家のレベルでは、この両方が同時に求められる。
矛盾する二つの要請を、不完全ながらもなんとか調和させようとしてきた。
だからこそ「どこまで明確にするか」「どこを曖昧にしておくか」という問題は、
常に悩ましく、いつも正解が揺れ続ける。

■ 判断の軸をどこに置くか

明確化か、曖昧化か。
この選択を誤れば、個人も組織も国家も混乱に向かう。
だからこそ私たちは、つぎの三つを丁寧に問い直す必要がある。

1.曖昧さによって守られているものは何か?
2.明確化によって失われるものは何か?
3.明確化によって得られるものは何か?

この三点を天秤にかけたとき、
はじめて「どちらが最適か」という判断が見えてくる。
逆にいえば、この問いを飛ばした明確化は、
たとえ意図が誠実でも、状況を硬直させてしまう。

■ 結びにかえて:境界線の引き方は、結局「生き方」そのもの

明確に言うべきか、曖昧なままにしておくべきか。
それは単なる技術論ではなく、
私たちが何を守り、どんな未来を望むのかという“姿勢”の問題だ。

曖昧さは逃げではなく、衝突を避けるための知恵。
明確さは強さであり、しかし代償も伴う。

外交も、組織も、心の対話も――
最適なバランスは常に揺らぎ、唯一の正解は存在しない。
その揺らぎの中にこそ、人間社会の複雑さと、選択の重さがある。

今回の問題は、
明確化そのものの是非ではなく、
“どの場面で・どの程度の明確さが最適なのか”
という、私たちが避けて通れない問いを改めて突きつけた。

境界線をどう描くか。
それは、時代とともに揺れ続ける、人間の永遠のテーマなのだと思う。

文:caritabito