冬の光に導かれて、舞子へ
岡山を出るとき、冬の光はまだ低く、フロントガラスに薄い金色をこびりつかせていた。旅に出る朝特有の静かな高揚感が、車内にやわらかく満ちていく。国道2号線をひた走り、町の顔がゆっくりと変わっていくにつれ、遠くの海を想像する心の温度が、すこしずつ上がっていくのを感じた。
明石に近づくにつれて、視界の向こうにぼんやりとした橋の影が浮かび上がってくる。まるで海の向こうから手招きをしているみたいだ。今回の旅の起点は、やはりこの橋から始まる。光の旅なのか、土地の旅なのか、それとも心の旅なのか、まだ分からないまま、舞子公園へ向かう。


舞子公園に車を停めると、潮風が一気に体へ触れてくる。ああ、海だ。冬の海はどこか背筋を伸ばさせる。雲ひとつない空からまっすぐ落ちてくる光が、水面で細やかなきらめきをつくっていた。公園に設置された案内図を見ると、この場所が「渡る前の時間」を抱えた土地であることを教えてくれる。人は橋を渡る前に、いったん立ち止まるものなのかもしれない。
海と橋の気配に触れる時間

海沿いを歩きながら近づく明石海峡大橋は、巨大でありながら、不思議とやさしい。足下の芝生の柔らかさと、空へ伸びていくケーブルの硬質さ。その対比が、旅はこういう小さな対照から始まっていくのだと気づかせる。主塔の真下に立つと、鉄骨が幾何学のように重なり、ひとつの巨大な詩のように見えた。

ふと、奥の広場から音楽が聞こえてきた。ダンスサークルの人たちが体を動かしている。旅先で「その土地の日常」に触れる瞬間が好きだ。どんなに美しい景色も、人の営みが加わると温度が生まれる。橋の巨大さと、ダンスのリズム。その並びが、旅の始まりにふさわしい“人と風景の混ざり方”だった。


しばらく橋脚の陰に腰をおろし、海を眺める。鉄と光と風が吹き抜けるこの場所は、ただ眺めるだけで体の奥に何かが流れこんでくるようだ。構造物の美しさに心を奪われるのは、そこに人間の知恵と努力が染みついているからだろう。光が鉄骨の隙間に差し込み、レンズ越しに七色のフレアを描く。ほんの短い時間だったが、旅の導入にふさわしい、静かな集中のひとときだった。
橋を渡るということ

やがて橋を渡るために車に戻る。アクセルを踏むと、視界の中で主塔が急速に近づいてくる。フロントガラス越しに見える巨大なラインが、まるで自分の中の「境界線」を乗り越えていくような錯覚を与える。渡る、という行為はいつでも心を揺らす。橋は二つの土地をつなぐだけでなく、二つの心の状態をもつないでくれるのだと思う。
淡路に降り立つ、柔らかな空気

淡路SAに着く頃には、旅の気配が一段深くなっていた。展望台に立つと、本州が遠くに小さく見える。橋を渡っただけなのに、もう「島の時間」がはじまっている気がする。空気が少し柔らかい。潮風がほんのり甘い。その微妙な違いを体が敏感に拾い、旅の脈拍が少し速くなる。



展望台のデッキに立ち、明石海峡大橋を再び眺めた。さっきまでいた場所が、もうあんなに遠い。橋は、人を移動させるだけでなく、過去をすこしだけ遠ざける。島側から見る景色は、本州側とはまるで違う表情を持っている。光の向きが変われば、風景も変わる。それは、人の心のあり方も同じなのだろう。

少し歩きつかれ、SAでうどんをいただく。玉ねぎの旨みが染み込んだ揚げ天がのったうどんは、島に来たことを胃袋で確かに実感させてくれる。旅の途中で食べる温かい麺類ほど、心をほぐしてくれるものはない。
淡路SAを後にすると、いよいよ島の奥へ向かう。ここから南へ、そして光へ。地図で見ればただの移動だが、車窓に広がる景色が変わるたび、旅は少しずつ深さを持ちはじめていく。
こうして、旅の第1章は静かに幕を開けた。
光に導かれ、橋を越え、島の空気に触れた一日。
そのどれもが、これから続く旅の序章として、十分すぎるほど美しかった。
文:caritabito