競馬のレースを見ていると、人はつい勝敗に気を奪われてしまう。
けれど日曜劇場『ロイヤルファミリー』は、そのさらに奥――
“なぜ、人は走るのか”という問いを、静かに差し出してくる。
血統。
家の名。
期待や責任という、動かせない構造物のようなもの。
それらに挟まれ、身動きができないような狭い場所で、
登場人物たちは長い間“走らされる人生”を続けてきた。
その姿は、玉置浩二の『ファンファーレ』(ドラマの主題歌)の前半を思わせる。
静かで、影が深く、声が胸の奥の痛い場所をなぞる。
まだ光に手が届かない。
けれど、確かにどこかで光を求めている。
そんな“閉じた世界の息づかい”がある。
だが、人生にはまれに、音楽の転調のような瞬間が訪れる。
それまで低く沈んでいたコードが、
次の一拍で一気に跳ね上がり、
空間そのものを明るく塗り替えてしまうような瞬間。
『ファンファーレ』のサビは、まさにその一撃だ。
閉ざされた部屋の窓が突如として開き、
光と風が一気に流れ込んでくる。
胸の奥につかえていたものが、外へ出ていく。
声が空に向かって広がり、
押し込めていた自分が“本来の姿”で立ち上がる。
登場人物たちの走り方が変わるのも、その瞬間と重なる。
「期待に応えるため」でもなく、
「役割を果たすため」でもなく、
“自分の誇りのために走りたい”と、心が静かに決断したとき。
人生のコードが跳ね上がり、
空気の密度が変わり、
同じ道なのに、風の質がまったく違って感じられる。
競馬もまた、表面上は勝敗の物語だ。
だが、本質はもっと深い。
馬は、馬主の願い、調教師の献身、厩務員の祈りのような手を背中に乗せて走る。
誰かの期待に応えるためではなく、
誰かの想いに支えられながら、その馬自身の誇りで走る。
これは人も同じだ。
走らされているうちは、世界は狭い。
だが、“走りたい”と思えた瞬間――
世界は跳ね上がり、広がり、光が差し込む。
ドラマ中の競馬シーンが胸を打つのは、
そこに“生き直しのファンファーレ”が鳴っているからだ。
勝利の号令ではない。
魂の奥でそっと鳴り始める、あの微光のような音。
『ファンファーレ』が、
痛みを抱えたまま光へ向かう人間の姿を描いているように。
このドラマの競馬も、人が“本当の走り方”を取り戻していく物語なのだ。
そして、その転調が訪れた瞬間、
人生は静かに、しかし決定的に、
サビへと跳ね上がる。
文:caritabito