試験の前夜、そして当日の朝。
緊張が走り、心臓がひときわ自己主張を始めるようなタイミングで、
なぜか自分の中に深い静けさが流れ込んでいた。
「大丈夫、落ち着いていこう」
そう言い聞かせたわけではない。
むしろ、自分で整えたというより、
どこかから静かな水が滲み出るように、自然と心のレベルが変わっていく感覚だった。
駅へ向かう道、風の温度がいつもより柔らかく感じられる。
早足なのに、内側だけがゆっくりと動いている。
そんな奇妙な二重構造のまま、私は試験会場へ向かった。
■ 静けさの正体に、あとから気づいた
昨日、試験前の“心の整え方”を振り返り、
一つのことに妙に納得してしまった。
あれは、単なる「落ち着き」でも「気合」でもなく、
もっと別の、少し抽象度の高い心理状態だったのではないか。
思い返せば、以前のエッセイで
「自己超越へのあこがれ」
「自分の輪郭が少しずつ薄くなる感覚」
について書いたことがある。
あれは比喩ではなく、まさに今回の試験前に起こっていたことの説明になっている気がした。
あの時の私は、“試験を受ける私”という小さな枠から、
一歩だけ外に出ていたのだと思う。
■ 自我の輪郭が薄れる時、人は楽になる
心を整える、という言葉には、
「不安を押さえ込む」とか「強くなる」といったイメージがつきまとう。
だが私が感じていた静けさは、そのどれにも当てはまらない。
むしろ、
余計なものがそぎ落とされ、自分の輪郭がゆっくりと薄くなっていく感じだった。
「合格しなければ」
「上手く話さなければ」
そんな声は、遠くへ引いていった。
代わりに訪れたのは、
ただ “その場にいていい” という、不思議な許しだった。
この感覚は、キャリコンとしてのトレーニングの中で、
私は無意識に何度も練習していたのだと思う。
相談者の語りに寄り添い、
相手の世界をいったん自分の中心に据える。
気持ちや葛藤の揺れを丁寧に受け止め、
相手の流れに寄り添う。
その積み重ねが、いつの間にか
「自分よりも大きな流れに身を置く感覚」
を育てていた。
だから、試験という緊張の極限状態でも、
私は自然とその“流れ”の中に戻れたのだ。
■ 自分を超えたところに、役割としての「支援者」が立ち上がる
ふと気づく。
試験前の静けさは、
“私のため”のものではなく、
“これから関わる誰かのため”の静けさだった。
私は「うまくやりたい」から落ち着こうとしていたのではない。
むしろ、
“支援者としての在り方”に、自然と体が寄っていった。
自分を強く意識するほど、人は緊張する。
自分の輪郭が薄くなっていくほど、心はしなやかになる。
その状態こそ、
相談者の語りに耳を澄ませ、
相手の世界の中心に静かに立ち続けるために必要な “器” なのだと、
あとから気づいた。
試験当日の朝、私はその器の入口に立っていた。
■ この気づきは、これからの支援に活かせる
試験は試験でしかない。
けれど、試験の中で偶然訪れたこの“静けさ”は、
これからの支援者としての道の、
一つの大切な手がかりになると思った。
自分を小さくするのではなく、
自分を無理に大きくするのでもなく、
自分の輪郭をそっと薄くしていく。
そうすることで、
人は自分を超えた場所から、誰かの力になることができる。
あの日の静けさは、
単なる緊張の緩和ではなかった。
支援者として生きるための “もうひとつの意識” が、確かに目を覚ましていた。
文:caritabito