― 森と人の境界が消えた時代に ―

Ⅰ.はじめに ― 境界が消えた森で

秋のニュースで、また「熊が出た」という見出しを見る。
東北や北海道に限らず、北陸、中部、近畿でも。
登山道、住宅地、時には市街地。
もはや「珍しいこと」ではなくなった。

だが、熊が“人里に下りてきた”という言葉には、どこか違和感がある。
本当に下りてきたのだろうか。
むしろ、私たちが“森の奥へ入り込みすぎた”のではないか。

かつて人と森のあいだには、薪を取り、畑を耕し、木の実を拾う「里山」という緩衝地帯があった。
そこでは熊も人も互いを知り、距離を保ちながら暮らしていた。
しかし、いまその境界は消えた。
熊の姿は、私たちが自然との付き合い方を見失った鏡のように思える。

Ⅱ.個体数の回復 ― 「森からあふれた」という仮説

ツキノワグマやヒグマは、1970年代には乱獲と林業開発で激減した。
一時は絶滅の危機に瀕した地域もある。
しかし、2000年代に入ると様相が変わる。

狩猟者の高齢化による捕獲圧の低下、保護政策の浸透、そして人間活動の後退。
その結果、熊の個体数は全国的に回復し、環境省の推定ではツキノワグマは1万頭を超え、
ヒグマも北海道で1万頭規模とされる。

この数は、単なる回復ではない。
かつて熊が棲めなかった山の奥や森林限界を越え、
いまや低山や中山間地、果ては住宅地近くまで分布を広げている。

つまり、「森からあふれた」という比喩は、あながち誇張ではない。
自然保護の成果と、環境変化の副作用が同時に進行しているのである。

Ⅲ.森の貧困化 ― 木の実が消えた山

一方で、森の中の「質」は低下している。
地球温暖化による気候変動、シカの過剰食害、台風や病虫害によって、
ドングリやブナの実をつける広葉樹が衰退している。

加えて、戦後に拡大したスギ・ヒノキの人工林は実を結ばず、
手入れも行き届かなくなった。
つまり、“餌のない森”が広がっているのだ。

空腹の熊は、やがて人の暮らす土地へ向かう。
果樹園、畑、ゴミ置き場、家畜の餌。
それらは、熊にとって「豊かな森の代替物」だ。

森の外へ出てくる熊を責める前に、
私たちは、森の中を貧しくした責任を見つめる必要がある。

Ⅳ.熊という生き物 ― 単独者の知恵と境界感覚

熊は、群れをつくらない。
オオカミやサルのように仲間と協調して生きることはない。
春から冬眠までの季節のなかを、ほぼ一頭で生き抜く孤独な獣である。

とはいえ、彼らの世界は孤立ではなく、微細な情報交換で満ちている。
木に体をこすりつけ、自分の匂いを残す。
爪痕を刻み、尿でメッセージを残す。
それは「ここに自分がいる」というサイレントな対話だ。
言葉を持たぬ代わりに、森全体が彼らの通信網となっている。

縄張りは性別や季節によって重なりあう。
とりわけオスは数十平方キロもの広大な行動圏を持ち、
繁殖期には他のオスとぶつかることもある。
しかし、彼らはむやみに争わない。
多くの場合、匂いと姿勢で牽制し、相手の存在を“読む”。
それは、戦いを避けるための高度な行動判断といえる。

母グマは、冬眠中に子を産み、約2年をかけて育てる。
子は母の背を追い、食べられる実、危険な匂い、人の足跡を学ぶ。
そしてある春、母が再び発情期を迎えると、子は森へ放たれる。
そのとき、人を恐れることを学び損ねた若い熊が、
人里へ迷い出ることが少なくない。

熊の行動は合理的であり、感情的ではない。
食べるために動き、危険を避けるために学ぶ。
だが、人間がその生活圏を侵すとき、
彼らの「理性の境界」もまた崩れる。
そして、対話のない衝突が始まる。

Ⅴ.境界を引き直す ― 共存の科学と社会

現在の熊対策は、もはや「捕まえる」「駆除する」だけでは対応しきれない。
年間2,000件を超える出没報告のすべてに即応することは不可能である。
必要なのは、“共存のための科学”だ。

その一つが「ヒューマン・ベア・セパレーション(Human–Bear Separation)」という考え方である。
熊と人の空間を再び分ける。
すなわち、森と生活圏のあいだに新しい見えない柵を設ける取り組みだ。

電気柵、防獣ネット、ゴミ管理、登山規制、熊出没マップ――。
それらはすべて「境界を引き直す」試みであり、
単なる防御ではなく、人と熊の相互尊重を基盤とする社会的技術である。

また、ハンターや研究者だけでなく、地域住民・登山者・観光客も含めた
「熊リテラシー」の共有が不可欠だ。
熊は恐れるべき存在であると同時に、
生態系を支える“森の管理者”でもある。

共存とは、親しむことではなく、
お互いを危険にしない距離を保ち続ける知恵である。
科学と文化が交わる地点にこそ、その知恵は生まれる。

Ⅵ.おわりに ― 熊の姿に映るもの

熊問題とは、単なる動物の話ではない。
それは、「人間が自然との距離感を失った社会現象」である。

豊かさを求めて山を切り開き、
便利さを求めて自然との関係を単純化してきた私たち。
その果てに、熊は鏡のように現れた。

森を貧しくしたのは誰か。
境界を消したのは誰か。
熊は、何も変わっていない。
変わったのは、私たちのほうだ。

「熊が出た」というニュースの裏には、
“人間という種がどのように地球と共存するか”という根源的な問いが潜んでいる。
共存とは、互いに遠ざけることではなく、境界を意識し続けること。
科学も倫理も、そこから始まる。

熊の足跡は、森と人とのあいだに残された、
私たち自身の生き方の痕跡なのかもしれない。

文:caritabito