かつて「支え合う社会」という言葉には、あたたかな響きがあった。
誰かが困っていれば、誰かが自然に手を差し伸べる。
支える側と支えられる側の境界は曖昧で、
明日は自分がその立場になるかもしれないという感覚が、人々の中にあった。

しかし、いつの頃からか「支え合う」の“合う”が抜け落ち、
「支える」「支えられる」が分断の言葉として使われるようになった気がする。
税金や社会保障の議論でも、
「どの世代が得をしているか」「どの制度が損をしているか」といった比較ばかりが目立ち、
「支える行為そのものが、すでに誰かの幸せを形づくっている」という感覚が薄れてしまった。

給付や補助は、国家が国民を支えるための仕組みである。
だが、支援を「もらうもの」としてしか捉えなくなったとき、
そこから「支え合う」温度が消えていく。
支え合いとは、単なるお金の流れではなく、心の往復運動であるはずだ。
「ありがとう」「お互いさま」「次は自分が誰かを助けよう」――
そうした言葉のやりとりが、人と社会をやさしく結びつけていく。

日本社会が今、静かに失いつつあるのは、
その“合う”を含んだ心の循環なのかもしれない。
支える行為が制度化され、支えられる側が匿名化されるほどに、
「誰が誰を支えているのか」が見えにくくなる。
すると、人は「よこせ」と言いやすくなり、「ありがとう」と言いにくくなる。

真に豊かな社会とは、税や制度の多寡ではなく、
支援の背後に“人の気配”が感じられる社会だと思う。
保育士のやさしいまなざし、看護師の励ましの言葉、
地域のボランティアが差し出す一杯の味噌汁――
それらは金額に換算できない支え合いの形であり、
社会を支える「見えない手」として確かに存在している。

「支え合う」の“合う”を取り戻すこと。
それは、制度を変えることよりも、心の向きを変えることだ。
自分もまた誰かに支えられているという事実に気づくこと。
そして、ほんの少しだけ誰かを気にかけ、声をかける勇気を持つこと。
その小さな“合う”が、やがて社会全体の温度を変えていくのではないだろうか。

文:caritabito