「信なくば立たず」――孔子の言葉である。
古代の中国で語られたこの一句は、二千年以上の時を経て、今なお政治家や経営者が好んで口にする。
だが、今日ほどこの言葉の意味が試されている時代もないのではないかと思う。
評価が氾濫する社会で
いま、誰もが評価者になれる。
SNSに投稿すれば、瞬時に「いいね」がつき、誰かがコメントを残す。
一方で、わずかな失言や切り取られた映像が拡散され、見知らぬ誰かが断罪する。
そうした中で、「信頼できる」「信頼できない」という言葉もまた、軽やかに飛び交う。
だが、その“信頼”の中身が何を指しているのかは、案外あいまいだ。
可視化されるのは評価であって、信頼の本質ではない。
「信なくば立たず」とは、本来、信頼を失えば政治も社会も成り立たないという警句だった。
しかし現代では、信頼そのものの価値が、情報の波に押し流されつつある。
「誠実さ」が評価されにくい時代
約束を守る。
説明責任を果たす。
嘘をつかない。
信頼の基盤は、昔も今もこの3つの行動に尽きる。
けれど今の社会では、それらが必ずしも評価されない。
約束を守っても「遅い」と言われ、
説明責任を果たせば「言い訳だ」と揶揄され、
嘘をつかない誠実さは「無難すぎる」と評される。
結果として、誠実に行動することが短期的には“損”になるような構造ができあがってしまった。
誰もが発信者になれる社会は、同時に、誰もが他者を簡単に疑える社会でもある。
信頼は「正しさ」より「一貫性」から生まれる
それでも、信頼を築く方法がなくなったわけではない。
信頼とは、相手を説得することではなく、「この人は裏切らないだろう」と思ってもらうことだ。
そのためには、
言葉よりも「一貫した行動」
成功よりも「失敗後の誠実な対応」
正論よりも「共感を伴う姿勢」
が必要だ。
短期的な人気よりも、長期的な誠実さ。
それが、見えにくい時代における唯一の信頼の築き方だろう。
「信」は相手からもらうものではない
信頼という言葉は、しばしば「誰かに信じてもらう」ことと理解される。
けれど本当は、自らが信じるに足る人間であろうとする姿勢が出発点にある。
誠実さは、即座に伝わるものではない。
だが、長い時間をかけて積み重ねた一貫性は、いずれ必ず形になる。
それは「立つ」ための根であり、見えないところで社会を支える力だ。
結びに
「信なくば立たず」という言葉は、
今を生きる私たちに「誰を信じるか」ではなく、
「どう生きるか」を問いかけているのかもしれない。
評価が乱れ飛ぶ時代にあっても、
静かに誠実であり続ける人がいる。
声は小さくても、足元は揺らがない。
その姿こそ、孔子が説いた「信」の現代的な証しではないだろうか。
文:caritabito