映画『国宝』の終盤、主人公・立花喜久雄は人間国宝認定のインタビューでこう語る。
「何か風景を追い求めている」と。そして、その問いを重ねられても「うまく表現できない」とだけ答える。
観客には、この“風景”が何であるかを直接説明されることはない。だが、物語の冒頭を思い出すと、その意味は自ずと浮かび上がってくる。少年時代、父を抗争で失ったあの日。雪が静かにちらつく中で、目の前の現実が崩れ落ちた記憶。あの喪失の瞬間こそが、彼が生涯追い求め続ける“風景”の原点だったのではないか。
ラストの舞台。歌舞伎の大きな見せ場で、白い紙吹雪が舞い落ちる。観客の目には華やかさと祝祭の象徴に映るだろう。しかし喜久雄の眼には、それがあの雪と重なっていたに違いない。痛みと悲しみを抱えながら、それを芸の中で昇華し、形にする。彼の「美しい」という呟きには、失われたものへの鎮魂と、芸を極めた者にしか見えない到達点が響いている。
芸とは何か。それは、個人の人生で刻まれた傷や喪失を、舞台の上で普遍的な“風景”へと昇華していく営みなのだろう。喜久雄にとって芸の修練は、父を奪った雪景色を生涯かけて見つめ直すことに他ならなかった。そして最後に、その雪は紙吹雪へと姿を変え、彼を包み込む。
人は誰しも、言葉にはできない“風景”を心に抱えて生きている。失ったもの、忘れられないもの。それが苦しみであると同時に、自分を動かし続ける原動力にもなる。喜久雄の物語は、その普遍的な真実を舞台芸術という形で示してくれたように思う。
文:caritabito