あるところに、不思議な石碑が立つ広場がありました。

そこには、こう書かれていました。

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」

人々はこの碑の前に立ち、静かに手を合わせ、祈りを捧げていきました。

ある日、一人の男がその前で立ち止まり、眉をひそめて言いました。

「これは誰のことを言っているんだ? 過ちを繰り返しません、だと? 誰が誓っている? 誰が過ちを犯したんだ? 主語がないじゃないか」

すると、近くにいた老人がそっと答えました。

「あなた自身ではありませんか?」

男は憤りました。

「バカを言うな、私は戦争にも行っていないし、誰かを傷つけた覚えもない」

老人は微笑み、石碑の裏にある一枚の鏡を指さしました。

「ならば、見てごらんなさい。この言葉の主語は、鏡が映しているその人です」

男は思わず鏡をのぞき込みました。そこには、自分が立っていました。

けれどその鏡は、ただの鏡ではありませんでした。映し出されるのは、過去の自分、今の自分、そしてこれからの自分でした。

すると、かつてニュースで無関心を装った自分が映りました。誰かが苦しんでいるとき、傍観した自分が映りました。声を上げるべきときに沈黙した自分。
どこか遠くで起きた戦争を、どこか他人事のように流した自分。

鏡の中の自分は、何も言わず、ただ黙ってそこに立っていました。

男は言葉を失いました。

「この碑はね、『誰かが』誓うものではないんです」と、老人が静かに言いました。

「”われわれが”、と書けば良かった、という声も昔からありました。けれど、あえて主語は書かれなかった。誰かに押しつけるのではなく、立ち止まった人が、それぞれに主語を見つけるためです」

「過ちを繰り返さない」というのは、命令でも、弁明でもありません。

それは、静かな祈りであり、深い誓いでした。

――そして、それに応えるかどうかは、言葉ではなく、行いにかかっているのです。

その日以来、男はときどき、あの広場を訪れるようになりました。

そして、碑の前に立つたび、鏡をのぞきこみ、自らに問い続けました。

「私は、この言葉の主語たりえるだろうか?」と。

文:caritabito

投稿者

caritabito

寓話エッセイ『鏡の前に立つ者たち』件のコメント

  1. 補足:この寓話に込めたもの
    この寓話では、「主語が誰か」という議論そのものを、鏡に映る「あなた自身」への問いへと転換しています。
    主語が明示されないことで、「自分は無関係だ」と思うのか
    あるいは、その空白に「自分自身の誓い」を見出せるか
    そこに、二極化思考ではたどり着けない地点があります。
    広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた碑文は、責任追及のために書かれたのではなく、「人類としてどう生きるか」という問いを私たち一人ひとりに投げかけているのではないでしょうか。

    caritabito

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